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近藤勇の菩提を弔い昭和まで生きた最後の新選組隊士「池田七三郎」

新選組隊士の群像【第12回】


「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第12回昭和まで存命し、新選組の語り部となった池田七三郎(いけだしちさぶろう)。


写真は壬生寺(京都市中京区)境内に残る近藤勇の銅像。小姓として近藤の身近にいた池田七三郎は、その言動、生き様に心酔し、死ぬまで近藤への
忠誠心を失わなかった。

 池田七三郎(1847~1938)は、昭和10年代まで生きた「新選組隊士最後の生き残り」といわれる人物である。下総国(しもうさのくに/千葉県)山辺郡田間村で商人の三男として生まれた。

 

 武士に憧れて江戸に出て、牛込飯田町・天野静一郎(一刀流)の門を叩き、撃剣の修行に入った。この後に旗本・氷見貞之丞の家臣となるが、氷見家の学問の師であった津軽弘前脱藩の浪人・毛内有之助(もうないありのすけ)と知り合い、毛内に憧れの気持を抱いた。その毛内が新選組に入ったことから、池田も入隊を希望した。

 

 慶応3年(1867)10月、隊士募集に江戸に来ていた土方歳三に入隊希望を出して受理され上洛した。20歳だった池田は、新選組では隊長・近藤勇付きの小姓となった。

 

 ちょうどこの時期、新選組は堀川通りの東、木津屋橋の南にあった不動堂村に一町四方の敷地を求めて屯所を新築したばかりであった。移転した直後に屯所に入った池田は「実の堂々たる大名屋敷のようであった」と、屯所の思い出を記憶していた。道場も隊士の部屋も完備されていて、一番奥まった部屋にいる近藤の様子を、池田はとても武州のお百姓上がりには見えず「どう見ても大名だなあ」と思ったほどに貫禄があったという。

 

 しかし、この時期の新選組は斜陽の時期にも差し掛かっていた。師とも仰いだ毛内は、伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の「高台寺党」に同調して新選組を去った。そして、鳥羽・伏見の戦いがあり、新選組は江戸に戻ることになった。池田は僅か数カ月の隊士を経験したに過ぎなかったが、それでも池田は、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい/新選組の別名)による甲州・勝沼の戦いやその後の会津戦争までを戦い続けた。こうした戦いの中で、池田は2度も鉄砲に撃たれて負傷し、ある場合は戸板で後方に運ばれるという経験もした。

 

 政府軍に降伏した後は、捕縛されたが後に放免された。それからは「稗田利八(ひえだりはち)」と名前を変えて、父の残した材木屋を継いだ。さらに池田(稗田)は、新選組の語り部として知っていることや覚えていることをいろんな人に話した。中でも作家・子母澤寛(しもざわかん)に話した事柄は『新選組聞書』の「稗田利八翁思出話」として広く伝えられた。これが新選組の貴重な資料にもなっている。

 

 また池田は毎月、新選組慰霊碑へのお参りや、近藤の冥福を祈ることを欠かさなかったという。近藤の菩提(ぼだい)を弔うことが、池田の余生の中心にあった。そして、昭和13年、池田は家族に看取られながら病死した。池田の死により、新選組の歴史が完結したことになる。新選組最後の隊士の死であった。池田七三郎(稗田利八)、享年90。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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