妹と母親を徳川家康に差し出した豊臣秀吉の苦肉の策─天下をかけた家康と秀吉の駆け引き─
徳川家康の「真実」
豊臣秀吉が関白に就任し、権力を掌握されてしまった徳川家康。もう家康は秀吉に抗う手立てはなくなってしまったのか⁉
■豊臣秀吉に権力を把握された徳川家康の運命は地震により一転

大阪城・豊国神社内に立つ豊臣秀吉像
家康の古くからの忠臣・石川数正の出奔は、家康と徳川家中を震撼(しんかん)させた。豊臣秀吉は家康との戦いで中継拠点となる美濃大垣城の一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)に対し「兵糧米5千石分を収納する漆喰塗りの蔵を造れ。船着き場の周りには堀を掘って警戒を厳重にしろ。古米は新米に入れ替えろ」などと詳細な指示を出し、信濃上田の真田昌幸(さなだまさゆき)には「家康を成敗する。来年正月出陣予定」と触れた。
小牧・長久手の戦い当時とは違い各地の味方はすでに秀吉へ降っている。「このままではなす術も無く秀吉に滅ぼされる」家康の焦りは大きかった。口では「数正の出奔は苦しからず(大した事ではない)」と強がりながらも(書状)家臣たちから人質を徴集し、家中の引き締めに躍やっ起き だった。とはいえ、それは根本的な解決にはならない。圧倒的な兵力差を持つ秀吉が侵攻してくれば、三河以東の徳川領は焼け野原となる公算が高かった。だが、ここで状況が一変する予想外の出来事が発生する。「天正地震」だ。天正13(1585)11月27日と29日に中部地方を巨大地震が襲ったのである。三河でも「大なへ(なゐ=地震)」(『家忠日記』)と記録されたが、被害は秀吉の勢力圏で比較にならない程甚大だった。
北近江では長浜城が倒壊して山内一豊(やまうちかずとよ)の娘が圧死、越中でも木舟城が倒壊し前田秀継夫妻が圧死、織田信雄の居城・伊勢長島城も倒壊、飛騨では山の崩落に帰雲城が呑み込まれ、城主・内ヶ島氏理以下全滅。そして前出の美濃大垣城も焼失。こうなっては家康との決戦どころではない。
家康は翌年3月に自ら伊豆三島まで出向いて北条氏と同盟し、背後を固める。徳川―北条の結びつきが強まれば、秀吉も容易には手が出せない。苦肉の策として秀吉は5月に妹の旭姫(あさひひめ)を家康に嫁がせ、さらに10月には家康を権中納言に進めた上で母の大政所(おおまんどころ)をも人質として送り込んだ。家康と旭姫との仲については、「自分が秀吉に殺されても妻はすぐ京へ送り返してやれ」(『逸話』)と指示したエピソードもあり、また天下を取ったあとも菩提寺の寺領を保護し、追善供養を命じているところを見ると、悪くはなかったのだろう。「もはや潮時か」家康は秀吉への臣従を決意した。今が自分を最も高く売れるタイミングだ。上洛を宣言した家康に対し、家臣たちが反対すると「自分と秀吉が講和しなければ、天下はいつまでも平和にならぬ。万一自分が殺されても、それは秀吉が殺すのではなく天が殺すのだ」(『逸話』)と諭したとも伝わる。相場を十分に分析し、最後は自分の決断に運命を託す心境だったろう。
監修・文/橋場日明