あやまって殺害した浪人の妻と恋仲になった巨漢新選組隊士・松原忠司
新選組隊士の群像【第9回】
「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第9回はあやまって殺害した浪人の妻と関係をもち、その優しい人柄が悲劇をもたらした松原忠司(まつばらちゅうじ)を取り上げる。

松原忠司も参戦したと推察される蛤御門の変。池田屋事件の後に起きた、長州藩急進派と佐幕派連合(会津藩。薩摩藩など)の戦いで、新選組は伏見方面の戦闘を担当した。写真は、攻撃側であった長州藩隊長のひとりであった来島又兵衛の討死場所(京都御所・清水谷の椋の木)。
松原忠司(1837~65)は、播磨国(はりまのくに)小野藩士の子であった。天神真楊流(てんじんしんようりゅう)・北辰心要流(ほくしんしんようりゅう)の柔術を学び、その達人とされたが脱藩して大坂で柔術を中心にした道場を開いた。まだ新選組になる前の「壬生浪士(みぶろうし)」時代に、松原は近藤の知遇を得た。近藤の流派・天然理心流に似た松原の武術の「総合格闘技」に似たキレの良さが、近藤に認められての入隊となった。
入隊して間もなく起きた「八月十八日の政変(朝廷から長州藩と尊攘派の公家7人を追放した政変)」に出動した壬生浪士組の中で、松原は坊主頭に白い鉢巻きを巻き、大薙刀を引っ提げて先頭を駆けた。その縦横無尽の活躍は、後方で見ていた近藤・土方ばかりか会津藩士や敵の長州藩士からも「武藏坊弁慶の再来ではないか」と褒めそやされたという。直後に新選組と改名するが、その新選組の隊内でも「今弁慶」というあだ名で呼ばれたほどであった。
元治元年(1864)6月5日の「池田屋事件」でも「今弁慶」は活躍し、15両の報奨金を受取、近藤から4番隊長・柔術師範を命じられた。
松原は坊主頭に巨漢という、見た目には恐ろしい感じがしたが、実際の性格は穏やかで優しく、しかも快活であったという。隊士ばかりか、壬生村の屯所周辺の一般市民たちからも「松原さんが怒ったところを見たことはない」と言われるほどに親しまれた。そのうえ、根が親切で、誰からも愛される存在でもあった。
松原の活躍はこの辺りまでで、後は次のような悲劇に似たエピソードが綴られているばかりである。
ある夜のことである。祇園で飲んだ松原は屯所へ帰る途中、四条大橋で1人の浪人とささいやことから口論になった。相手が刀に手を掛けたのを見て、松原は抜き打ちに斬り付けた。相手の浪人はその場で即死した。ふと酔いが覚めて後悔した松原は、斬り殺した相手のことが気になり、その懐を探ると財布があり、その中に「壬生・天神横町」の住所と「安西某」という名前を記した紙があった。巨漢の松原は異体を担いで、その自宅に届けに行った。浪人の家はあばら屋で、2歳ほどの男の子が病気で伏せっていた。
出てきた浪人の妻に、自分が殺したとは言えない松原は「斬り合いに自分も助太刀したが間に合わなかった」と嘘を言い、持っていたお金を置いて戻った。それからしばしばその家を訪ねた松原は、反省と哀れさから一家の面倒を見た。しかし子どもは病死し、妻女は独り身になってしまった。やがて、松原と妻女が男女の仲になった。
これが近藤や土方の耳に入り、松原は「自分が殺した相手の妻女と親しくなるとは士道に背く」と叱責された。一度は切腹を試みた松原だったが、篠原泰之進(しのはらたいのしん)に刀を取り上げられて失敗。結局、隊内でも身の置き所がなくなった松原は慶応2年5月、天神横町の家で妻女を絞め殺し、自らは切腹して果てた。「壬生心中」といわれるエピソードである。
作家・子母澤寛による『新選組物語』(昭和6年刊行。『新選組始末記』とは異なり、その題名「物語」の通りに史実と言うよりもフィクション性の強い読み物である)に劇的に描かれた話であるが、初期屯所の置かれた八木邸の八木為三郎によれば「妻女は、24、5歳のそれは別嬪で近所の評判もいい女だった」とのことである。松原忠司、享年28。