×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

勝つためなら手段も選ばない!? 明治から続いた因縁の闘犬バトル秋田犬VS土佐犬

日本人と愛犬の歴史 #05


犬同士を闘わせてその勝敗を競う「闘犬」を知っているだろうか。古来世界各国で行われてきたが、現在は動物愛護的観点から禁止する国・地域も増えている。日本ではかつて、秋田と土佐で闘犬が盛んに行われ、その結果秋田犬は一時本来の姿を失う事態にまで発展した。その歴史と闘犬文化の盛衰を紐解いてみよう。


 

■お互いのプライドをかけた争い 姿が変わってしまった秋田犬

 

 秋田犬(あきたいぬ)は有名だが、実際に見たことがある人は少ない。体格が大きくてペットショップで見ることもないから、出会う機会自体がないのである。ましてや、大正時代の秋田犬の写真を見る機会は皆無だろう。だがおそらく、その写真を見た人は驚くに違いない。何しろ見た目がほぼ洋犬だからである。大正時代まで遡(さかのぼ)らなくても、昭和の戦争後でもまだ、秋田犬には洋犬の風貌(ふうぼう)が残っていた。

 

 なぜなら、秋田犬はかつて闘犬用に“改良”され、洋犬や土佐闘犬の血が入ったからである。一度入った洋犬の血は非常に強く、昭和6年(1931)に日本犬6種の中で最初に天然記念物の指定を受けた後も、なかなか以前の姿に戻らなかった。

 

 秋田はもともと闘犬の盛んな土地柄で、江戸時代から盛んに行われていた。藩主が好んで試合を行っていたのである。明治に入ってから、闘犬はさらに普及した。ある程度の財力がある家は強い犬を飼っていたし、神社や野原などで盛んに催されたから、庶民の娯楽として根づいたのである。

 

 村同士が闘犬で競い合うこともあった。中でも盛んだったのが秋田の大館(おおだて)で、明治18年(1885)には公営の闘犬場が設置されている。あまりの加熱ぶりに知事は禁止令を出したが、効果はなかった。そういう土地柄だったから、秋田では大きい犬が好まれて繁殖されており、他の地域よりも少し大きい体格の犬が多かった。それでも明治の末頃までは、闘犬はだいたい立ち耳巻き尾の、昔ながらの犬同士で行われていた。

 

 秋田の人々は冠婚葬祭にも犬を連れていって、帰りに河原や空き地などで飲みながら闘犬を楽しんでいた。これに関して『秋田犬の父 澤田石守衛(さわたいし・もりえ)』(木楽舎)が、体験者にしかわからない当時の雰囲気を伝えている。この本は長く熊猟をしてきた秋田犬飼育者の、犬と共に歩んだ人生の貴重な聞き書きだ。

 

 澤田石は大正5年(1916)に生まれた。当時、闘犬はしょっちゅう行われていたという。「わたしの住んでいた五城目町(ごじょうめまち)などの地方は、非公認の闇でやるんです。警察が見回りに来ると、みんな一目散に逃げるんですよ。でも見つけたって警察も黙っているんだ。後で、逃げた人も警察も一緒になって、わたしの屋敷に集まってお酒を飲んで酔っぱらっていた。そういう時代でした」

 

 試合は先に「キャン」と鳴いた方が負けになる。そして純粋な秋田犬ほど、すぐに声を出して負けてしまうのだった。だが澤田石に言わせれば「それも仕方ない。秋田犬はもともと、ふだんはゆったりしているんだ。獲物に出会った時だけ目覚める」
 
 一方、土佐の方は維新後、いち早く洋犬の血を導入。ブルドッグから始まってマスティフ、ポインター、グレート・デーンなどの大きくて闘犬に向く犬種と交配させ、土佐闘犬を作出(さくしゅつ)していった。そして秋田に遠征してきたのである。

 

 しかしルールに違いがあった上、何より体型や気質の違いもあって秋田側は負け続けた。それで秋田側は、争うように土佐闘犬や洋犬の血を入れたのである。土佐闘犬の血が入ると粘り強くなって、食いついたら離れない。シェパードの血が入ると、急所に素早く食いつくようになった。

 

 秋田の犬はこのような経過をたどって、「新秋田」と呼ばれる洋犬風の犬になっていった。お陰で体が大きく闘争的にはなったが、立ち耳に巻き尾(あるいは差し尾)を特徴とする、日本の犬の容貌は失われてしまった。しかしそこまでしても、秋田の血が入った犬は最後には負けてしまうのだった。

Ⓒnene

■秋田犬と土佐犬のその後 闘犬文化の終焉 

 

 そしてついに、新秋田の横綱である『館勇号(たていさおごう)』が、土佐闘犬『天城山号』との伝説の一戦に破れたのである。館勇号の敗北に秋田の人々は衝撃を受けた。そして、いくら洋犬の血を入れても土佐にはかなわないという雰囲気が広がり、新秋田全盛時代は終わりを告げたのだった。

 

 しかし、そのことによって秋田犬界全体までもが衰退に向かう。そんな中で文部省が大正8年(1919)、史蹟名勝天然紀念物保存法を制定し、秋田犬を天然記念物に指定した。そのことによって、秋田犬は日本犬として復元への道を歩むことになる。

 

 それに対し、勝利した土佐の方は我が世の春を謳歌(おうか)することになった。日本闘犬界の頂点に立ち、戦争中は慰問団を結成して各地を回り、どこでも大人気を博した。戦争後も高度経済成長期まで高い人気を誇り、高知観光の目玉として、修学旅行のコースにも入っていたほどである。昭和40年(1965)には坂本龍馬像のある桂浜(かつらはま)に、「土佐闘犬センター」ができた。

 

 しかし、やがて時代が変わって娯楽が多様化し、動物愛護意識が高まると闘犬は批判の対象になっていく。そんな中で経営の傾いた土佐闘犬センターが、高知県から9億5000万円にのぼる闇融資を受けていたことが発覚した。これは、高知新聞の粘り強い調査報道によって明らかになったものである。

 

 この事件は闘犬の凋落(ちょうらく)に拍車をかけた。その後、土佐闘犬センターは2014年に「とさいぬパーク」という可愛い名称に変更し、常設されていた闘犬観戦を廃止した。それでも経営を立て直すことはできず、3年後に閉鎖になった。関係者は「秋田犬のような家庭犬を目指したい」と述べていたが、時すでに遅しである。それにしても、もし伝説の一戦で土佐犬ではなく秋田犬が勝っていたら、どうなっていただろうか……。

 

 いま日本犬に指定されている四国犬(しこくいぬ)は、闘犬熱のなかにあっても、古くからの犬を保護し続けてきた人々の苦闘の賜物(たまもの)である。それと区別するために、土佐闘犬と呼ばれている闘犬用の犬は、愛好家の手で細々と飼い続けられているが、やがて消えてしまうだろう。

 

 闘犬は人間が、自分たちの闘争本能を仮託して行ってきたものだ。戦争前から闘犬界を率いてきた中島凱風は、闘犬の近代化に努め、「土佐犬はいい家庭犬になる」とアピールしたが、闘犬の衰退を見ながら無念の死を迎えることになった。公(おおやけ)の場で白昼堂々、横綱たる闘犬がまわしを着けて土俵入りをするのは日本独特の闘犬文化であり、明治維新が生んだ日本近代史の一部だった。「とさいぬパーク」の閉鎖は、一つの時代の終わりだったのである。

KEYWORDS:

過去記事

川西玲子かわにしれいこ

1954年、東京生まれ。(公社)日本犬保存会会員。専門学校や大学で講師を務めた後、現在は東アジア近代史をメインに執筆活動を行う。主な著書に『歴史を知ればもっとおもしろい韓国映画』、『映画が語る昭和史』(ともにランダムハウス)、『戦時下の日本犬』(蒼天出版)、『戦前外地の高校野球 台湾・朝鮮・満州に花開いた球児たちの夢』(彩流社)など。Amazonに著者ページあり。

最新号案内

『歴史人』2025年10月号

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル

邪馬台国の場所は畿内か北部九州か? 論争が続く邪馬台国や卑弥呼の謎は、日本史最大のミステリーとされている。今号では、古代史専門の歴史学者たちに支持する説を伺い、最新の知見を伝えていく。