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忠犬ハチ公の真実! 人の愛と欲望に翻弄された一生とは?

日本人と愛犬の歴史 #01


今年はかの有名な忠犬ハチ公の生誕100年という節目の年にあたる。ハチ公は忠犬として有名だが、同時に渋谷の良き街犬でもあった。多くの人に愛された忠犬の知られざる「その後の話」をひも解いてみよう。


 

渋谷駅前のハチ公像
初代の像は1945(昭和20)年8月14日に溶解され、その後機関車の部品となったという。現在渋谷駅前にあるハチ公像は、1948(昭和23)年に再建されたもの。
出典:photo AC

■100年前の忠犬物語

 

 「忠犬ハチ公」こと『ハチ』は、1923(大正12)年11月、関東大震災の2ヶ月後に生まれ、子犬を求めていた渋谷の上野英三郎(うえの えいざぶろう)博士のもとへ送られた。上野は体の弱かったハチを懐に入れるなどして、大切に育てた。おかげで立派な若犬になったハチは、上野博士が東大に出勤するのにお供し、夕方に迎えに行くという生活を送るようになった。『ハチ公』というのは上野宅の書生たちが呼び始めた呼称だ。恐らく、師の犬を呼び捨てにできなかったのだろう。

 

 しかし、わずか1年4ヶ月後に、上野博士は大学で倒れて急逝してしまう。葬儀の時、ハチはガラス戸を押し開けて家の中に入り、棺の下に腹這いになって動かなかったという。ここまではよく知られた話だが、ハチの人生……もとい“犬生(けんせい)”は、続いてゆく。

 

 上野博士の死後、夫人は家を失ってハチを飼えなくなってしまい、やむなく親戚の呉服店に預けた。しかし、夫人に似た女性が来ると飛びかかるなどして商売の邪魔になり、次に浅草の知人宅に預けられることになった。そこでは裏庭で重い椅子につながれ、渋谷に帰りたがってか椅子をずるずる引きずるという状態だったという。

 

 そのうち、博士の弟子たちが世田谷に家を建ててくれたため、夫人はハチを引き取った。ところが、ハチは、時々どこかに出かけていく。やがて、ハチが渋谷に戻りたがっていることを知った夫人は、出入りの植木職人だった小林菊三郎(こばやし きくさぶろう)に託すことにした。小林宅では弟の友吉や近所の新聞配達員がハチの散歩担当になったが、やがて自由に動き回れるよう放し飼いになった(当時放し飼いは当たり前だった)。

 

 上野博士は生前、出張帰りに渋谷駅にハチが迎えにきていると喜んで褒めてやり、焼き鳥などの食べ物を買い与えていたという。東大への送り迎えがなくなってからも、ハチにとって渋谷は、博士との思い出が詰まった特別な場所だったのだろう。

 

 当初、ハチは飼い主である小林宅で朝ごはんを食べてから駅前に出かけ、夕方に戻るという生活をしていた。ハチは周囲の人々に愛されており、近所にあるニカク食堂で、朝ごはんをもらうこともあったらしい。店主夫妻はハチをとてもかわいがり、ハチの好きな肉をとっておいてくれた。

 

 しかし、月日が経つにつれてハチの毛は汚れ、野良犬と間違えられたり、通行人に邪魔だと蹴飛ばされるようになった。そんなハチの様子に胸を痛め、駅に通うようになった経緯を知ってもらおうと新聞社に情報を提供したのが、日本犬保存会創設者の斎藤弘吉(さいとう ひろきち)だ。

 

 渋谷駅にやってきた新聞記者が「いとしや老犬物語」という情に訴える記事を掲載したのが、1932(昭和7)年10月、満洲国建国から7ヶ月後のことだった。ハチは一躍注目を浴び、人気に火がついた。

 

 純粋にハチに同情する人も多かった一方、ハチをめぐって人間の欲も渦巻いた。じつは生前、ハチの出生地や渋谷に送られた経緯などは全く知られていなかった。そのため、「我こそはハチ公の生家だ」と名乗り出る者が後を絶たなかったのだ。

 

 中でもやっかいだったのは、「上野家から一切を任された」と称して、木像建設資金を勝手に集める人間が現れたことである。そこで斎藤は周囲の勧めもあって、それを防ぐためにハチの銅像建設を決意する。除幕式は1934(昭和9)年4月に行われた。こうした多くの人の尽力のおかげで、ハチは渋谷駅の中を自由に歩けるようになったのだった。

 

■愛された老犬の最期

 

 そんなハチも加齢と共に弱って駅で寝泊まりすることが多くなり、飼い主の小林と弟が小荷物室の片隅に寝床を作った。そして、1935年(昭和10)年3月5日の早朝、ハチは渋谷駅とは反対側にあった酒店の前で息絶えているのを発見されたのだった。

 ハチの告別式は駅葬だった。全国から見舞金が届き、動物愛護協会からも弔電が届いた。そして7ヶ月後、尋常(じんじょう)小学校2年生の修身(しゅうしん)の教科書に取り上げられた。「オンヲワスレルナ」という項目だったので、国に利用されたとも言える。

 さて、これまで書いたエピソードの多くは、若犬の頃からハチを見守ってきた斎藤弘吉が残した文献や、子どもの頃にハチの頭を撫でていた林 正春という区民が出版した『ハチ公文献集』に書かれているものだ。林は「このままではハチの真実がわからなくなる」と資料を集め、様々な人に取材してこの本を残した。

 忠犬ハチ公は博士の死後、渋谷の街犬として人々と触れ合いながら暮らした。生後2ヶ月で秋田を出たハチにとって、渋谷はかけがえのない居場所であり、駅付近で暮らすことは自然なことだったのではないだろうか。そして、ハチは忠犬だったからこそ、博士亡き後も渋谷の良き街犬として生きられたのだ。そんなハチの生き様は、昭和の街犬のあり方そのものだったとも言える。その数々のエピソードは私たちに、昭和という時代の息吹や人々の生活を伝えてくれる。

 

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過去記事

川西玲子かわにしれいこ

1954年、東京生まれ。(公社)日本犬保存会会員。専門学校や大学で講師を務めた後、現在は東アジア近代史をメインに執筆活動を行う。主な著書に『歴史を知ればもっとおもしろい韓国映画』、『映画が語る昭和史』(ともにランダムハウス)、『戦時下の日本犬』(蒼天出版)、『戦前外地の高校野球 台湾・朝鮮・満州に花開いた球児たちの夢』(彩流社)など。Amazonに著者ページあり。

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