明治時代の作家・二葉亭四迷が泣きながら「犬」を探した理由とは?─明治の洋犬文化と激変した犬との関係─
日本人と愛犬の歴史 #03
幕末の開国を経て、文明開化の時代を迎えた明治の日本。外国人が大勢来日し、彼らが連れてきた洋犬の姿と生活様式は当時の人々に大きな衝撃を与えた。爆発的な洋犬ブーム、街や村から姿を消した日本犬の行方、大きく変容した犬との付き合い方……。明治の犬文化の光と影を見つめてみよう。
■ もてはやされた洋犬と居場所を失った日本犬
日本の犬は幕末まで、人間によって手を加えられることなく、古来の姿形をそのまま残してきた。犬は本来、耳が立って尻尾は巻くか立っている。昭和に入って系統繁殖が行われるようになったが、今でも日本の犬は原始に近い姿をしている。
日本の犬の歴史はそのまま、日本人の歴史でもある。日本列島はかつて大陸と地続きで、犬は人間と共に渡ってきたと推測されている。初期に渡ってきた犬は「縄文(じょうもん)犬」と呼ばれ、縄文遺跡から犬の埴輪(はにわ)が出ている。縄文犬はあとから渡ってきた弥生(やよい)犬と混血して、日本の犬の原型を作った。そして、犬たちはその地域の気候風土に順応し、微妙な違いを生みながら日本人と共に暮らしてきた。
そんな日本は、江戸時代に鎖国をし、そして幕末に開国した。幕府が、西洋列強の要求に抗しきれず5か所の港を開放すると、外国人が次々に入ってきた。そして犬を連れてきたのである。初めて洋犬を見た日本人はびっくりしたことだろう。
手入れされた美しい毛並みと垂れた耳を持ち、よく躾(しつけ)をされていて、家の中で人間と一緒に暮らす。そして飼い主と一緒にわざわざ散歩をするのである。そんな暮らし方はこれまでの日本ではあり得なかったので、何から何まで驚きだったはずだ。
何より洋犬は華やかだ。一方、日本の犬は地味だった。当時は野良犬同然で、子どもの遊び相手になるか道端で昼寝しているだけである。しかも洋犬には値段と名前がついている。それまで犬は、もらうか拾ってくるものだった。名前もないか、せいぜい毛色で「クロ」や「シロ」などと呼ばれているだけだった。
日本人はすぐに洋犬に夢中になった。特に富裕層が、こぞって洋犬を飼うようになったのである。そして、日本の犬はいきなり見下されるようになった。当時は「日本犬」という言葉もなかったから、ただの犬か地犬、下手すると駄犬などと呼ばれるようになる。驚くべきことに、耳が立ち尾は巻くか立っているという風貌の昔ながらの犬は、明治20年代後半には町や村から姿を消した。そして山奥で、猟犬として細々と生きていたのである。
その頃、いい犬はほとんどが横浜の外国人宅で飼育されていた。だから犬を求める者は、雇われているボーイやコックと交渉して生まれた子犬を買い受けたり、物々交換したり、時にはごまかしたりして手に入れていた。
そうなると、やがて両者を仲介する者が出てくる。これら仲介者は当初それを副業にしていて、注文を受けると犬を探し歩いた。やがて東京から買い出しに来る人間が増えると、仲介者は次第に良い犬を選んで買い集めるようになる。彼らが専業の業者となるにつれて、流通の仕組みができていった。繁殖業者も誕生した。

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■激変した犬と人の関係性
洋犬の飼育が広がるにしたがって、犬と人間との関係は変わっていく。犬は共同体と緩くつながる町犬や村犬から、個人と絆を結ぶ飼い犬へと変化していったのだ。そして、政府もそれを後押しした。訪欧使節団に参加してイギリスを訪れた伊藤博文(いとうひろぶみ)は、イギリスの畜犬文化に感心した。そして明治6年(1873)に畜犬規則を布達(ふたつ)したのである。
一. 畜犬には首輪をつけ、飼い主の住所氏名を木札に明記し付けること。ただし無札の分は全て無主とみなし、これを殺すべし
一. 狂犬にかかる犬は飼い主、これを殺すべし
一. 道路に狂病の畜犬がいれば、邏卒(らそつ/巡回の兵士)、番人、その他誰にてもこれを殺すべし。もしこのために費用がかかれば、飼い主が支払うべし
とはいえ、飼い主がはっきりしなければ全て殺すというのは、ちょっといき過ぎのように思える。何より、あまりにも突然の転換だった。以後、野犬や狂犬病との闘いは、発足間もない警察にとって重要な仕事となった。そのために雇われた業者は主に被差別部落の人間で、犬を撲殺(ぼくさつ)する様子は凄まじいものだったという。
狂犬病撲滅策は、犬と人との関係を組み変えることと表裏一体だった。新政府は、路上にたむろする野蛮な犬たちを一掃しようという確固たる方針を立てた。(『犬の現代史』今川勲著,現代書館,1996年)
同書によると「狂犬病対策はその目的(注:治安対策)の一つだったが、基本的には犬と人の関係の欧米化、言い換えると里犬(町犬、村犬)の存在を否定し、個人による全ての犬の飼犬化を図った。このことが洋犬至上主義を助長したのである」東京府が各区長や戸長に布達した文書には、『里犬の殴殺』と明記されていた。
洋犬の流入によって変わっていった人間と犬との関係を象徴するのが、犬好きの作家たちの意識である。たとえば二葉亭四迷だ。明治20年代の半ば、小説家の二葉亭四迷(ふたばていしめい)は「マル」という名の犬を飼いはじめた。友人がごみ溜めから拾ってきた犬である。だがマルはある日、ひょんなことから飛び出していって、それっきり戻らなかったのである。それから1ヶ月、二葉亭は泣きながら探しまわった。
『浮き雲』で近代小説の幕を開いた二葉亭は、12歳の時に調印された千島樺太(ちしまからふと)交換条約に衝撃を受け、生涯にわたって日本の前途を憂えつづけた硬派だった。日露戦争後には朝日新聞ロシア特派員となり、病を得て帰国途上に死亡している。
この変わったペンネームは、自分自身に対して吐き捨てた「くたばってしまえ」という言葉が由来である。斜に構えたような書き方で、自然主義文学を批判しつづけた皮肉屋だった。そんな二葉亭が、涙を流しながら犬を探しまわったのである。
明治に入ってから、犬に対する小説家や随筆家の姿勢は、江戸時代とは全く違うものになった。犬がいなくなったからと涙を流し、それを短歌にして小説に書くような人間は、江戸時代にはいなかった。この点について、仁科明男は『犬たちの明治維新 ポチの誕生』(草思社)にこう書いている。
「明治の作家、文学者にとって犬を飼うことは『近代』そのものだった。個々の責任で犬を飼うことは明治の新現象だったのだ。犬を飼うことは自分という生き物を見つめる行為でもあった。犬とは何か、人は何か。犬を飼うことによって自分を再発見し、思いめぐらす人々がいた」二葉亭はその典型だったのである。