【親ガチャ】3人の子どもがいるのに不倫した有島武郎の「身勝手すぎる手紙」の内容
炎上とスキャンダルの歴史2
大正時代の文壇を代表する人気作家・有島武郎(ありしま・たけお)は、不倫の果てに愛人女性と心中。有島の3人の子どもに残されたのは、「父はできるだけ戦った」「皆さんの怒りと悲しみはあるだろうが、しかたがなかった」「運命だった」といった内容の身勝手な遺書だった。
■「幸福なお坊っちゃま3人組」の青天霹靂

「3児よ! 父は出来るだけの力で戦ってきた」有島は遺書でどう弁明したか?
「親ガチャ」という言葉が令和の世の日本には定着しています。生まれてくる家庭、そして親次第で、その子供の人生は大きく変わるという意味でしょうが、それはいつの時代も同じです。「親ガチャ」がとくに有効だったのは、貧富の差が大きく、生まれながらの身分がモノをいった戦前日本ではないでしょうか。
映画スターのような甘く、上品な容貌で知られ、大正時代の文壇を代表する人気作家だった有島武郎を父に、男爵家の令嬢を母に持った、長男・行光、次男・敏行、三男・行三は、当時もっとも幸福なお坊っちゃま3人組だったといえるでしょう。
しかし、彼らの自慢のお父様が、「愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思はなかった」と言いながら、愛人女性・波多野秋子と情死したことで、三兄弟だけでなく、一族郎党全員が地獄に叩き落される大事件が大正12年(1923年)夏に起こりました。
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