本能寺で出会っていなかった信長と光秀
史記から読む徳川家康㉘
7月23日(日)放送の『どうする家康』第28回「本能寺の変」では、明智光秀(あけちみつひで/酒向芳)による反乱で、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)が襲われる様子が描かれた。死を覚悟していた信長の脳裏には、これまでの半生と、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)との日々がよぎっていた。
天下統一目前の信長が本能寺で散る

京都府京都市に立つ本能寺跡の石碑。明智光秀は織田信長の遺体を血眼(ちまなこ)になって探したものの、結局見つけることはできなかった。これがその後の光秀の運命を決定づけることになったといわれている。
織田信長が上洛する一方、信長の首を狙う徳川家康は京を離れ、貿易都市・堺(さかい)に赴いた。会合衆と呼ばれる有力者たちと関係を深めることを目的としたもので、彼らと強く結びつけば、経済的な後ろ盾ができ、家康の望む天下がより近づくことになる。
そんななか、家康は信長の妹である市(いち/北川景子)と偶然に再会。市の口から、「兄のたった一人の友」と聞かされ、家康は信長暗殺に迷いが生じるようになった。安土城(あづちじょう)での信長とのやり取りでも、踏み切れない自分を見つけた家康は苦悶する。家臣たちの間でも、信長を死に追いやることについてはいまだに賛否が分かれていた。
家康が信長を殺すことを諦めた頃、信長の京の宿所である本能寺の周囲を明智光秀の軍勢が取り囲んだ。光秀軍の攻撃が始まると、すでに刺客(しかく)に刺されて致命傷を負った信長は、自分を殺しに来るであろう家康の姿を求めて、寺内をさまよい歩いていた。
やがて、反乱の首謀者が家康ではなく光秀だと分かった信長は、失望した様子で歩き回るのをやめ、炎に包まれた奥の間に姿を消したのだった。
家康は信長のために切腹する覚悟を見せていた
1582(天正10)年6月1日、徳川家康は堺で津田宗及(つだそうきゅう)、松井友閑(まついゆうかん)らとの茶席に参加している(『宇野主水日記』)。
この日の夜、明智光秀は反乱を決意したといわれている。家臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)や明智秀満(あけちひでみつ)らに逆心を打ち明け、光秀は自身が天下人となる策略を練った(『信長公記』『イエズス会日本年報』)。
羽柴秀吉(はしばひでよし)が進めている毛利攻めに明智軍が参戦する旨は、明智軍の兵にも周知の命令だった。ところが、亀山城(かめやまじょう/京都府亀岡市)を出発した軍勢が何故か京に向かっていたことから、西国に出陣する徳川軍の援軍に向かう(あるいは家康を討つ)ものだと思った兵もいたらしい(「本城惣右衛門覚書」)。
翌2日の夜明け前、明智軍は織田信長が宿泊していた本能寺(京都府京都市)を包囲(『蓮成院記録』『日本史』)。午前4時から5時頃のことと思われる。
包囲した明智軍の軍勢は約3000(『日本史』)。当時、すでに信長は起床していて、手と頭を洗い終えたところだったという(『1582年度日本年報追信』)。
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