実際は「冤罪」だった水野信元の処刑
史記から読む徳川家康㉓
6月18日(日)放送の『どうする家康』第23回「瀬名、覚醒」では、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)に武田との内通を疑われる徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の様子が描かれた。嫡男の信康(のぶやす/細田佳央太)に粗暴な振る舞いが増えた上、正室の瀬名(せな/有村架純)が不穏な動きを見せていることは、家康にとっても徳川家家臣にとっても見過ごせない事態になりつつあった。
嫡男・信康の心が壊れ始める

愛知県刈谷市にある刈谷城本丸跡の石碑。水野信元が居城としていたが、信元が家康に殺害された後、佐久間信盛の城となる。信盛が織田家から追放されると、再び水野氏の手に戻った。
設楽原(したらがはら)の戦いで武田軍に圧勝した織田・徳川連合軍だったが、領土を巡る争いは続いていた。
そんななか、築山(つきやま)では、徳川家康の正室・瀬名と、武田の歩き巫女(みこ)・千代(古川琴音)との虚々実々(きょきょじつじつ)の駆け引きが行なわれていた。織田信長の娘であり、家康の嫡男・信康の正室である五徳(ごとく/久保史緒里)は、この様子を武田との内通と受け取り、父・信長に報告した。
これを受け、信長は家康の伯父に当たる水野信元(みずののぶもと/寺島進)の処罰を家康に命令。信元は、この処罰を「お前への見せしめじゃ」と忠告して家康の目の前で死んでいった。信元によれば、家康の身内に武田方に通じている者がおり、信長が警告を発しているという。信長の言いなりになって伯父を処刑した父に、信康は激しく反発した。
そんななか、信康が突如、僧侶を切り捨てる事件が発生。合戦の続く日々の中で、信康の心は深い傷を負っていた。追い詰められる信康の様子を見て、瀬名は胸に秘めていた計画を信康とともに実行することを決意したのだった。
武田軍との領土争いは膠着状態に
1575(天正3)年12月27日、徳川家康は、伯父である水野信元を岡崎城(愛知県岡崎市)に呼び出し、切腹を命じた。これは織田信長の指示によるもので、織田家家臣・佐久間信盛(さくまのぶもり)の讒言(ざんげん)によって信元に武田勝頼(たけだかつより)との内通が疑われたためという(『松平記』)。
また、岡崎城に逃れてきた信元を、徳川家家臣の平岩親吉(ひらいわちかよし)が大樹寺(愛知県岡崎市)にて、養子の水野信政(のぶまさ)とともに斬ったとの説もある(『寛政重修諸家譜』)。
なお、のちに信長は信元が冤罪(えんざい)だったことを認めている。
翌1576(天正4)年2月7日、家康が寝込みを襲われるという事件が発生した。忍び込んだのは近藤武介という武田の配下で、井伊直政(いいなおまさ)により討たれている(『井伊年譜』)。
同年3月17日、家康は前年に奪った牧野城(静岡県島田市)の城主に今川氏真(いまがわうじざね)を配置(「松井家文書」)。駿河国(現在の静岡県東半部)をうかがう牧野城に氏真を配することで、旧今川氏の家臣や反武田氏の勢力を糾合(きゅうごう)する狙いがあったものと考えられる。ところが、約1年後には解任され、氏真は家康の居城である浜松城に戻されている(「海老江文書」)。
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