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家康は信康を子育ての「失敗例」として断じていた

史記から読む徳川家康㉕


7月2日(日)放送の『どうする家康』第25回「はるかに遠い夢」では、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の正室である瀬名(せな/有村架純)と、嫡男の信康(のぶやす/細田佳央太)のその後が描かれた。二人が最終的に下した決断に、家康は深い悲しみに包まれたのだった。


 

最愛の妻子を一度に失う

 

静岡県浜松市にある松平信康公廟所。『三河後風土記』によれば、二俣城に信康を預けた家康は、城主の大久保忠世が信康をうまく逃してくれると期待していたという。ところが、真面目に監禁していた結果、信康が自害に追い詰められたため、家康は忠世に憤激したらしい。

 瀬名の願う国作りは、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)にとっては、武田と通じた裏切り行為に等しいものだった。信長は険しい顔つきで、処断は自分の手で行なうよう徳川家康に伝えた。

 

 家康は瀬名や信康が命を落とすのではなく、信長の目を再び欺いてでも、生き残る方策を必死に思案した。

 

 刑場へ移送する間に、服部半蔵(はっとりはんぞう/山田孝之)らが身代わりを立てて二人を逃がすという算段をしたものの、瀬名も信康も直前で拒み、徳川家の命脈を保つために死を選んだ。瀬名は最期に「兎(うさぎ)は狼よりもずっと強い」との言葉を残して、家康の手に口づけし、自ら命を絶った。

 

 瀬名の夢に賛同した者たちの失望は深く、武田の歩き巫女(みこ)・千代(古川琴音)ですら、所在なく甲斐を後にした。

 

 悲しみに暮れる家康の涙が枯れることはなかった。

 

通説がすっかり変わりつつある「信康事件」

 

「築山殿(つきやまどの)が武田勝頼(たけだかつより)と密かに手を結び、織田信長・徳川家康に背こうとしている。この企みに、信康を引き入れようとしている」

 

 そんな噂が信長の耳に入ったのは、1579(天正7)年7月のこと。

 

 同年716日、家康は信長の居城である安土城(あづちじょう/滋賀県近江八幡市)に、酒井忠次(さかいただつぐ)と奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を派遣している(『信長公記』)。目的は馬の献上だが、どうやらこの時に、岡崎城の不穏な動きについての話し合いが持たれたようだ。

 

 家康はこの時に、信長に何らかの裁可を得ている。「信長から内々の了解を得ようとしていたところ、そのように父や臣下から見限られたうえは、是非に及ばない。家康に存分次第にせよという返答があった」(『当代記』)というから、家康はこの時には信康を処分することを決めていたらしい。わざわざ信長に報告しているのは、信康が信長の娘婿だったからだろう。

 

 信康や築山殿の悪行を十二か条も書き連ねた書状を五徳(ごとく)から受け取った信長は、忠次に釈明を求めるといちいち認めたため、「とても放置しておけぬ。切腹させよと家康に申せ」(『三河物語』『改正三河後風土記』)と命令。これを受けて、家康は泣く泣く妻子を処刑した、といった経緯が広く知られているが、今日では史実として、さまざまな疑問が呈されている。

 

 ともあれ、おそらく信康処断の許可を得た家康は、同年83日に浜松城から信康のいる岡崎城を訪れている。翌4日に岡崎城で信康と対面しているが、ここでも言い争いとなった(『家忠日記』)。この時点で、父子は完全に決裂したと見られる。そこでついに家康は信康を大浜(愛知県碧南市)に追放した(『家忠日記』『安土日記』「信光明寺文書」)。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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