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すべての戦いに参戦した新選組1の猛者!「島田魁」とは?

新選組隊士の群像【第2回】


「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第2回は巨漢で怪力を誇った島田魁(しまだかい)。


 


新選組屯所であった旧前川邸。文久2年(1863)からの2年間、結成間もない新選組の活動拠点となった。往時のおもかげを残す史跡だが、現在は個人宅となり非公開。

 島田魁(1828~1900)は、美濃国(みののくに)出身。大垣(おおがき)藩士の子であった。いくつか養子先を変えたが、その身長は約180センチ、体重は約150キロ。新選組1の巨漢で知られ、相撲取りにも間違えられたという。体格がよかったといわれる近藤勇の身長が164センチであったことを考えれば、島田の際立った巨漢ぶりが分かる。新選組には文久3年(1863)4月、養子先の島田家を脱藩して、まだ「壬生浪士組(みぶろうしぐみ/後の新選組)」が結成されたばかりの組織に入った。

 

 そのきっかけは、大坂で、種田流槍術(たねだりゅうそうじゅつ)を習った際の同門・谷万太郎(たにまんたろう/備中松山藩士・後に新選組入隊)との縁で頓所(とんしょ)を訪ねた際に、江戸で心形刀流(しんぎょうとうりゅう)を学んだ道場(師匠・坪内主馬/つぼうちしゅめ)で同門であった永倉新八(ながくらしんぱち)と再会し、入隊を勧められたことからとされる。島田の入隊は36歳の時であった。

 

 大阪・京都周辺に住んでいたことから土地勘がある島田は、山崎(やまざきすすむ)と同様に新選組の諸士調役兼監察という「諜報」の役目に就いた。文久3年7月、尊攘(そんじょう)派浪士の取締りに大坂に出向いた芹沢鴨(せりざわかも)ら浪士組(「壬生浪」と呼ばれていた)が、大坂の相撲取りと乱闘になった際に、相手の力士を最初に投げ飛ばしたのが巨漢・島田であった。

 

 池田屋事件では、島田は土方と共に行動していたために池田屋には遅れて駆け付けることになったが、その際も見事な戦いぶりであったという。その後も、島田は禁門の変はじめ、鳥羽・伏見の戦いまで新選組のあらゆる戦いに得意の槍を振るって参戦した。鳥羽・伏見では、突進した新選組の隊士数人の中にいた永倉が、奉行所に引き返す際に、武装が重くて土塀をよじ登れなくなった。いち早く上りきっていた島田は、怪力を発揮して永倉の腕を掴むと軽々引っ張り上げ救ったこともあった。

 

 新選組が江戸に引き上げ、その後は甲府城を目指し「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」と名を変えた近藤らと共に行動した。島田は「東照大権現(とうしょうだいごんげん/徳川家康の神号)」と書かれた新選組の幟(のぼり/約3.5メートル)を身体に巻き付けて戦い抜いた。後に箱舘(はこだて)の戦いで銃創を負ったが、島田の身体に巻き付いていた幟が血で真っ赤に染まっても、島田は幟を取ることはなかったという。

 

 土方と共に戦った箱舘・五稜郭(ごりょうかく)では副小隊長という役目を持った。五稜郭降伏後に島田も降伏、尾張・名古屋藩にお預けとなった。明治6年(1873)6月、自由になると、知人に預けたてあった妻子と共に美濃に戻った。剣道道場をやりながら西本願寺の夜警を努めるなどして明治33年2月17日、72歳で波乱の生涯を閉じた。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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