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新選組の諜報ナンバー1で「新選組医師」の異名ももった山崎丞とは?

新選組隊士の群像【第1回】


「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第1回は新選組諜報員(ちょうほういん)として暗躍した山崎(やまざきすすむ)。


山崎丞の名を天下に轟かせた池田屋事件。山崎の関与については諸説あるが、諜報員として勤王派浪士を監視、貴重な情報を土方歳三たちに報告してことは間違いないだろう。写真は池田屋跡。

 山崎丞(1834頃~1868)は、摂津国(せっつのくに)大坂出身。薬種問屋の息子であったが、新選組が活動を始めた時期に京都・壬生(みぶ)に住んでいたことから、その姿に憧れて元治元年(1864)に隊士となった。町人出身であったから世情にも精通しており、近藤・土方など幹部には重宝がられた。豪商や大店(おおだな)の姿・形も簡単に扮装できたことから、後に「監察」という役職に就いた。これは、長州勢はじめ尊王攘夷(そんのうじょうい)派の動向を探り、新選組隊士の私生活などのチェックも行う「諜報(スパイ)」の役目であった。

 

 剣術に長けていた訳ではないが、資金調達など武士には苦手なことも上手くこなした。一時、新選組の医師として診察などをした幕府奥医師(御殿医)・松本良順(まつもとりょうじゅん)は自伝に「性格は温厚にしてあまり口を利かず静かだが、忍耐力があり、近藤勇が最も愛する(信頼する)者である」と山崎を評している。

 

 松本は、医師としてみた場合に山崎が適していると見立てて、山崎に西洋医学の救急法を教えている。他に切り傷の縫合術まで学び、本人は「俺こそが新選組の医者である」と自慢したという逸話も残る。

 

 その容姿については「身体は大柄、顔は色黒、寡黙な人柄」(新選組の初期屯所主人・八木為三郎/やぎためさぶろう)という。使う武器は長巻(大太刀)を得意とした。

 

 山崎の最大の逸話は、池田屋事件の際に薬売りに変装した山崎が池田屋に予め宿泊していて宿の表戸を開けて近藤らを引き入れた、というもの(永倉新八『新選組顛末記』)だが、これは別の事件の逸話が混同されたものという。実際には、元治元年(1865)1月に大坂で起きた播磨屋事件(近江源氏の佐々木氏を騙る不審な浪士たちの検挙)の際に、山崎が薬売りに変装して播磨屋に入り込み動静を探り、武器を隠すなどして新選組を引き入れ、20数人の浪士を捕縛(1人のみ斬り捨て)した出来事だった。

 

 山崎の仕事は、このように多岐に渡ったが、有能であったことは確かであろう。こうした実力と実績が認められ諸士調役となり、新選組が幕臣に取り立てられた時には、沖田総司(おきたそうし)や永倉(ながくら)など試衛館の生え抜き隊士に次いで5番目の副長助勤に登用されている。近藤・土方から7番目の幹部である。

 

 山崎は禁門の変などでも戦場を往来して戦況報告などで奔走したが、鳥羽・伏見の戦いで全身3ヵ所に鉄砲傷を負う。その逸話の1つに「重症の山崎は江戸引き上げの富士山丸で死亡し水葬となる。近藤が涙を流して追悼した」といされるが、実はこれには確証がない。大坂の旅籠(はたご)・京屋で療養後に死亡、とか淀で討ち死に、などいくつかの説がある。享年34とみられる。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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