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「本能寺の変」の証拠隠滅か⁉ 明智光秀と親交のあった人物が半年分の日記を書き変えた理由とは

戦国時代の裏側をのぞく ~とある神官の日記『兼見卿記』より~


日本史上のミステリーの1つ、「本能寺の変」。織田信長(おだのぶなが)を討った明智光秀(あけちみつひで)はその後、羽柴秀吉(はしばひでよし)に敗れてしまいます。実はその直後、それまで光秀と親交のあった神官・吉田兼見(よしだかねみ)が、その年の日記をマルッと書き変えていたのです。彼は「本能寺の変」と何か関係があったのでしょうか…?


 

■「本能寺の変」勃発!

 

 天正10年(1582)6月2日、日本史を大きく変える一大事件が勃発します。京都・本能寺にいた織田信長が、重臣の明智光秀により急襲され自刃(じじん)した「本能寺の変」が起こったのです。本能寺の周りが騒がしいことに最初、信長らは下々の者が喧嘩しているのかと思ったようですが、それは誤解でした。

 

 明智軍は、鬨(とき)の声をあげ、本能寺に向かい、鉄砲を撃ってきます。信長が「謀反か。誰の仕業か」と問いかけると「明智の手の者かと思われます」との答えが。信長は「仕方がない」と覚悟を決めると、次々と侵入してくる明智の兵を弓で射ます。だが、何度も弓を射るうちに、弦が切れてしまう。信長は今度は槍を手に取り、敵勢と戦いますが、肘に槍傷(やりきず)を受けて、御殿の奥に退いていくのです。信長の小姓衆も奮戦しますが、多くが討死します。本能寺は炎上し、信長はそのなかで自害したとされます。

 

 この本能寺の変は、吉田兼見の日記『兼見卿記』(かねみきょうき)にも触れられています。6月2日の箇所には「朝早く、信長の屋敷・本能寺に火が放たれたということを告げ知らせる」者があったこと、「邸の門外に出てみると、それが確かなものであったこと」「明智光秀が謀反を企て、信長が自害したこと」などが記されているのです。

 

■書き変えられた日記の謎

 

 ちなみに、本能寺の変が起きた天正10年の同日記は「正本」と「別本」の2つがあります。「正本」は1月から12月までの記録があるのですが、「別本」は1月から6月12日までの記事しかありません。ここから分かることは、兼見が「別本」に書かれていた自分にとって都合の悪い箇所を書き換えて、新しく「正本」を作成したということです。

必死に日記を書き変える兼見の姿が目に浮かびます…。(イラスト/nene)

 ちなみに「別本」には、6月7日、兼見が安土を訪れて、明智光秀と対面する様が書かれています。その時、兼見と光秀は「今度謀反之存分雑談」(光秀の信長への謀反について語り合った)したようです。しかし、その話の詳細は記されていません。兼見がここにその詳細を書いてくれていたら、後世の歴史学者はどれほど助かったことか…と、思わざるを得ません。

 

 兼見と光秀は親交がありましたので、光秀は兼見に本音を話していたかもしれません。「別本」の「光秀の信長への謀反について語り合った」との記述ですが、その箇所は「正本」にはありません。兼見は意図的にこの部分を削ったと思われます。前述したように、兼見と光秀は親しい関係にありました。それに加えて「謀反について語り合った」という一文が万が一、公になればエライことになると兼見は考えたのでしょう。(光秀、すまぬ)という想いで、兼見は文章を書き換えたのでしょうか。乱世を生き抜くため、兼見も必死だったのです。

 

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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