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織田信長によるビッグイベントを成功させろ!多くの家臣が奔走した「御馬揃え」とは

戦国時代の裏側をのぞく ~とある神官の日記『兼見卿記』より~


戦国時代に様々な前代未聞のことを成し遂げた織田信長(おだのぶなが)ですが、その1つに「京都御馬揃え(おうまぞろえ)」があります。豪華絢爛なイベントだったそうで、そこには当然、事前準備に奔走した人たちがいました。神官・吉田兼見(よしだかねみ)もその1人です。では、彼の日記『兼見卿記』(かねみきょうき)から、その一部をのぞいてみましょう。


 

■織田信長が行った「京都御馬揃え」とは

 

 天正9年(1581)2月28日、織田信長は京都において「馬揃え」(騎馬を集めてその優越を競い合う行事)を実施します。信長は、大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国の五畿内または隣国の領主などを召して、天下から優れた馬を集め、正親町天皇の観覧を仰いだのでした。宮中の東門の築地の外には、仮桟敷(さじき/見物席)が造られますが、仮の桟敷とは言え、金銀を散りばめた豪勢なものであり、そこに天皇や公卿らが華やかな衣装で、お座りになられました(『信長公記』)。

 

どんな様子だったのでしょうか?想像が膨らみます。(イラスト/nene)

 

 信長は当日の朝8時頃に、本能寺を出て、室町通り・一条通りと進んでいくのですが、馬揃えには、丹羽長秀(にわながひで)・明智光秀(あけちみつひで)など織田重臣も参加していました。実はこの馬揃えの日から、1ヶ月ほど前の1月25日。吉田兼見のもとに、馬揃えをするという話が伝えられていました。伝えてくれたのは、旧知の仲の明智光秀。光秀は「今度、信長が上洛して、馬揃えをする」ということを兼見に書状で伝えたのです。

 

 それだけでなく「公家衆も参加するように」との文言もありました。しかし、兼見は馬揃えに参加したくはなかったようです。そこで翌日(1月26日)、兼見は光秀の居城・坂本城に向かい、参加免除を願うのでした。他の公家衆に先んじて、兼見に一足先に知らせたのは、信長の命令ではなく、光秀の一存だったとのこと。「急に準備するのは大変だからということで、気遣いのため、知らせた」とのことでした。光秀、優しいですね。兼見は、不参加を聞いた信長が怒った時は、取り成して欲しいと光秀に依頼しています。

 

■「京都御馬揃え」を成功させろ!吉田兼見も奔走

 

 しかし、兼見は馬揃えの準備に向けて、奔走させられることになります。2月11日には、小笠原秀清(おがさわらひできよ)から書状が到来。そこには「信長公は来る15日に入洛されることが決まった。馬揃えの出立の際に必要な烏帽子と腰帯を借用したい」と記されていました。兼見はそれらを借したようです。

 

 2月15日には、信長の上洛が18日に延期されたとの情報が兼見に入ってきます。同日、兼見は村井貞勝(むらいさだかつ)のもとを訪れ、馬揃えの「仕立道具」をことごとく検分しています。「結構目を驚かす」とありますので、道具の豪華さに驚いたのでしょうか。

 

 その後も兼見の日記には、馬揃えに向けての準備の様子が記されています。2月21日には、内裏の東に「馬場」が普請されたとあります。同月23日には、明智光秀や細川藤孝(ほそかわふじたか)・松井友閑(まついゆうかん)らが「春日馬場」において騎乗したことが書かれています。本番前の事前騎乗(練習)といったところでしょうか。彼らの従者200余人の夕食は、兼見が準備しています。2月27日、兼見は明日の馬揃えを見物するため、万里小路邸に宿をとっています。

 

 そして、当日。兼見は息子・兼治(かねはる)とともに東屋に向かいます。兼見は馬揃えの様子を「結構を尽くし」と書き、感激していますね。(最初は嫌だったけど、見物できて良かった)と思ったでしょうか。2月29日、兼見は見物の礼を述べに、信長のもとを訪れています。

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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