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あらゆる手段で戦国乱世を勝ち抜いた豪勇の士・宇喜多直家とは⁈

戦国レジェンド


目的を達成するためには手段を選ばない強者として、これまで認識されてきた宇喜多直家。しかしそれは戦国乱世を生き抜くための手段であり、このような振る舞いは戦国武将のだれしもが行っていたのではないだろうか。直家は現在の大都市・岡山の礎を築き、その手腕を発揮した人物でもあった。


 

■不信感を抱きつつ従い機を見て謀反し力で排除

岡山城
直家の死後、子の宇喜多秀家は岡山城を大改修するとともに街道筋を整えて城下町を拡大整備し、商人へ誘致活動を努め発展させた。

 宇喜多(うきた)氏は、備前国東部を本拠とする国衆で、もともとは、備前守護代浦上(うらがみ)氏の家臣だった。ちなみに、備前守護は、播磨(はりま)守護の赤松(あかまつ)氏が兼ねている。

 

 主家の浦上氏は、宇喜多直家(うきたなおいえ)の祖父にあたる宇喜多能家(よしいえ)の活躍により、守護の赤松氏をも凌駕(りょうが)し、備前・美作(みまさか)・播磨を支配するほどの権勢をえた。しかし、宇喜多氏の台頭を恐れる浦上氏によって能家は暗殺されてしまう。

 

 こうした背景があるため、直家自身は、浦上氏に忠誠心を抱いていなかったに違いない。ただ、直家の能力は高く評価されていたようで、浦上宗景(むねかげ)の命に従って、備前南西部の制圧に乗り出している。

 

 こうしたなか、備中の三村家親(みむらいえちか)が浦上氏の領国である美作へ進出してきた。直家は、永禄8年(1565)、美作に侵入した三村家親を撃退したが、翌永禄9年、家親が再び侵入してくる。

 

 美作に侵入した家親は、興善寺(こうぜんじ)に本陣をおく。直家は、三村軍に対し、まともに戦うことをしなかった。その代わり、遠藤秀清(えんどうひできよ)・俊通(としみち)兄弟に命じ、元親を鉄砲で暗殺させてしまったのである。これにより、三村氏の脅威は消え去った。

 

 こののち、直家の台頭を恐れた浦上宗景が毛利輝元(もうりてるもと)と結ぶと、直家は一時的に毛利氏と結んで浦上氏に対抗する。しかし、手のひらを返すかのように毛利氏と対立する出雲の尼子(あまご)氏とも結んでいる。宇喜多氏が生き残るには手段を選べなかったのも事実である。

 

 浦上氏の本拠が備前の東部であったことから、直家は備前の西部に本拠を移し、岡山城を居城とした。直家は、岡山城下を発展させることで、勢威を強めていく。

 

 勢力を拡大しつつある直家は、織田信長(おだのぶなが)に追放された足利義昭(あしかがよしあき)にも認められたらしい。毛利輝元との和睦を勧められ、これに応じている。

 

 ただし、室町幕府を中心とする伝統的な体制の復活を望んでいたわけではない。天正3年(1575)には、浦上宗景の兄・政宗(まさむね)の孫を擁立し、宗景に反旗を翻す。そして、浦上宗景の居城であった備前天神山城(びぜんてんじんやまじょう)をも攻略し、主君を隣国の播磨に敗走させたのである。そして、それまで浦上氏が支配してきた備中・美作をも併合し、ついには名実ともに戦国大名となったのである。

 

 なお、この直後、直家は中国平定を進める織田信長の家臣羽柴(はしば/豊臣)秀吉に服属し、今度は、毛利氏と対峙する。こうした働きにより、直家の死後、子の秀家は豊臣政権の五大老にも選ばれたのである。

 

監修・文 小和田泰経

歴史人2023年3月号「戦国レジェンド」より

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