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1500人が処分された‟大奥最大“のスキャンダル「絵島生島事件」の真実とは?

歴史に残るあの事件の黒幕【第5回】


うっかり門限を破ってしまい、うっかり口止め料を役人に握らせなかったために大奥や芝居関係者1500人が処分される江戸時代最大級の事件に発展した。その真相に迫る!


絵島と生島が会ったのは事件当日だけではなかった。桟敷には座元山村長大夫の自宅に通じる秘密の通路があったといい、これを使って2人は何度も情事を楽しんでいたという。
「新撰東錦絵生島新五郎之話」(東京都立中央図書館蔵)

 

 死罪2人、取り調べ中の拷問による獄中死1人、流罪(るざい)60人など総勢1500人が処分されたという大事件があった。おそらく記録が残るものとしては江戸時代最大級の数であろう。さて、この大事件一体何であろうか。これは俗に「絵島生島(えじまいくしま)事件」といわれている事件なのである。

 

 事件は、正徳4年(1714112日に江戸木挽町(こびきちょう)にあった山村座で、上演中であった『東海道大名曾我』を大奥の御年寄(おとしより)・絵島(えじま)らが観劇したことに端を発する。大奥に勤める女性たちは基本的に江戸城から出ることができない。しかしこの日は、七代将軍徳川家継(いえつぐ)の生母月光院(げっこういん)が病気で外に出かけられないことから、月光院つきの奥女中(おくじょちゅう)絵島と宮路が五代将軍徳川綱吉(つなよし/命日は110日)と六代将軍徳川家宣(いえのぶ/命日は1014日)の墓所へ代参のため特別に外出が許可された。当時は、月命日ごとに墓参りをすることになっていたのだが、この時には2人が手分けして一度に済ませてしまった。

 

 一旦、外に出たら、あれもしたい、これもしたいと思うのか、絵島と宮路は、山村座で待ち合わせして観劇した。この当時、奥女中たちが観劇するのはそれほど珍しいことではなかったようだ。といっても2人だけでなく、見張りや供の侍なども含めると総勢100人を超える大所帯になる。事前に席を予約し、中で食べる弁当なども手配した。2人が観たのは『東海道大名曾我』だが、歌舞伎が好きという方でも聞いたことがないと思われるだろう。

 

 実は、この芝居は不入りで悩んでいたという。そこへ奥女中たちが大挙して訪れたのだ。当時芝居小屋は悪所の代名詞とされていた場所であったが、奥女中が訪れればイメージアップにつながる。さらに現在もよくあることだが、有名人が「見た」ということで人々の関心を引き、作品の人気がでることを山村座の関係者は期待していたようだ。

 

 絵島が入ったのは個室になっていた桟敷(さじき)で、そこに芝居小屋の関係者が入り代わり立ち代わりやって来てもてなす。その上、彼女がお気に入りだった役者の生島新五郎(いくしましんごろう)も同席しての宴会となった。当時は、御贔屓(ごひいき)の役者を自分の桟敷に呼ぶことも可能であった。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。江戸城の門限は暮れ六つ(午後6時ごろ)であったが、それを過ぎてしまったのである。

 

 実は、奥女中たちが観劇し、門限を破ってしまうことはこれが最初ではなかったようだ。その場合目付役としてついていた役人にそっと金を握らせれば、黙っていてくれるのだが、相当酔っていたのか、それともよほど慌てていたのか、賄賂を忘れてしまったのである。

 

 賄賂を貰えなかった役人はこのことを上役に報告。公式には観劇も門限破りも処罰の対象となるからだ。22日に取り調べが始まり、絵島・宮路をはじめとする奥女中7人が親戚預けとなった。

 

 だがそれだけでは終わらなかった。27日に芝居関係者が町奉行所に呼び出されたことにより、事件が大きくなる。詳しい取り調べの経緯は省くとして、最終的には、絵島は月光院のお慈悲により死一等(しいっとう)を減じられ高遠(たかとお)へ配流、さらに300人以上の奥女中が処分された。それだけではない。絵島の義兄白井平右衛門が絵島を諫(いさ)めなかったとして死罪。実弟の豊島平八郎は諫めたことがあるとして減刑されて追放、親戚の奥医師・奥山交竹院(おくやまこうちくいん)は御蔵島(みくらじま)へ遠島、その弟の奥山喜内(きない)は絵島とたびたび遊んだという理由で死罪、そのほか、遠島や追放となった幕府の役人が何人もいた。事件の発端となった山村座はお取り潰しとなり、座元の村山長大夫は大島へ、役者生島新五郎は三宅島へ遠島になった。

 

 取り調べの途中で狂言作家の中村清五郎(なかむらせいごろう)の妻が拷問により死亡、中村清五郎自身は神津島(こうづしま)へ遠島となった。同席した役者だけでなく、多くの役者も処罰された。

 

 このほか、観劇中に絵島のところへご機嫌伺いをした商人たちも遠島や閉門などの処分を受けている。大奥の中でも御年寄だった絵島は絶大な権力を誇っていた。彼女に取り入れば御用商人たちはさらなる儲けになると考えたのだ。

 

 この絶大な権力が絵島を不幸にしたといえるだろう。絵島の主は将軍の生母月光院である。しかし、七代将軍家継はこの時わずか6歳、生来病弱で事件の2年後に亡くなってしまう。この時すでに次の将軍の座を巡っての駆け引きが始まっていたようである。また、月光院は正室ではなく側室で、正室だった天英院との間に確執があったとも伝わる。家継をそれだけでなく、サポートしていた間部詮房(まなべあきふさ)や新井白石(あらいはくせき)と老中たちとの間にも溝が生まれていた。いわば将軍の座をめぐるパワーバランスの綱引きの中で絶大な権力者絵島を快く思わない者が、事を大きくしたのだろう。

 

 

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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