日本史上最大の火災「明暦の大火」は江戸の町を作り直すために放火された火事!?
歴史に残るあの事件の黒幕【第4回】
完成したばかりの江戸の町を紅蓮(ぐれん)の炎に包み、焼き尽くした明暦の大火(めいれきのたいか)。振袖を燃やしたのが原因とされているが、それはあるたくらみを隠すための作り話だった。

阿部伊勢守屋敷の左側に菊坂壹町などを挟んで本妙寺の文字が見える。そのため、阿部家の代わりに本妙寺が火元になったという説には無理があるのではないかといわれている。 「江戸切絵図 本郷湯島絵図」(国立国会図書館蔵)
江戸時代最大の火事を皆さんはご存じだろうか。答えは、明暦3年(1657)に起こった明暦の大火である。明暦3年1月18日の午後2時頃、本郷円山町から出火した火が神田方面に燃え広がり、隅田川の対岸である深川まで焼けた。当時、千住大橋(せんじゅおおはし)よりも下流には橋が架けられておらず、隅田川を渡れずに大勢の人が亡くなった。その反省から新たに橋が架けられた。これが両国橋(りょうごくばし)だといわれている。
一度鎮火したはずが、翌日の昼頃、最初の火元に近い小石川から出火。強風にあおられて瞬く間に火の海となり、その勢いは江戸城をも飲み込んで天守をはじめとした本丸、二の丸が焼け落ちた。さらにこの日の午後には、麹町(こうじまち)でも火事が発生。芝あたりまで燃え広がり、翌朝まで続いたという。
この火事で、大名屋敷500余、旗本屋敷770余、町屋400町余りを焼き、死者の数は10万7046人にのぼったと伝えられている。天正18年(1590)に徳川家康(とくがわいえやす)が江戸に入って以来、途中何度かの中断を経て3代将軍徳川家光(いえみつ)の時代になってやっと完成したばかりの江戸城と江戸の町は、ほとんどが灰になってしまったのだ。
この火事のことを振袖火事(ふりそでかじ)ともいう。それには次のような言い伝えがあるからだ。
ある少女が振袖姿の美少年にひとめぼれした。江戸時代の初めごろは元服(げんぷく)前の男子も振袖を着ていたのだ。娘は親に頼んで少年のものにそっくりな振袖を作ってもらった。だが、娘はこの着物を見てますます少年に恋焦がれるようになり、やがて衰弱死してしまう。親は娘の棺に振袖をかけて本妙寺に運んだ。寺では焼くには惜しいほど見事な振袖を古着屋に売った。
その着物を別の少女が手に入れたが、その少女もまもなく病を得て亡くなり、同じように振袖をかけた棺が本妙寺に持ち込まれた。この時も振袖を古着屋に売り払い、その振袖を手に入れた娘が亡くなり、振袖を上にかけた棺が本妙寺に運び込まれる。三度目ともなるとさすがに寺でも気味が悪くなり、振袖を供養のためにお焚き上げしようとした。ところが火のついた振袖が強風で舞い上がり、結果として大火事になったというのだ。
何か無理がある話だなあと思う人もいることだろう。実は、同時代の記録にはなく、後世になって広がった話しなのだ。つまり、作り話の可能性が高いのである。ではなぜ、このような話が作られたのだろうか。
この振袖の話のように長い間人々がひっそりと伝えてきた話がある。本当の火事の火元は本妙寺ではなく、すぐそばに下屋敷のあった大名阿部家だというのだ。江戸時代、小火程度で消し止めたのであれば罪に問われないが、そうでない限りは処罰の対象となった。そのために大名家では自前の火消を持ち、内々で済まそうとした。表門さえ焼けなれば罪に問われないという決まりがあったからだという。
しかし、小火ですまなかったので失火の罪を本妙寺が被ったというのだ。何せ、江戸中を焼き尽くすほどの火事だ、本妙寺はお取り潰し、もしくは江戸郊外に移転になったのではないかと思うだろう。だが、本妙寺は火事の後も元の場所に再建されて、その後に移転したものの、現在まで続いている。
さらに、不謹慎な噂も途切れることになく語り継がれている。人口増加のスピードが速く徳川三代にわたって造られた江戸の町は、出来上がった時には小さくて使いづらくなってしまっていた。そのため、最初から造り直すために誰かが火をつけたと。
阿部家は徳川家康が今川家の人質になった時に同行した正勝(まさかつ)以来、常に徳川将軍家の身近に使えており、三代将軍徳川家光が亡くなった際には、当時の当主阿部重次(しげつぐ)が殉死しているような家柄である。
幕閣の誰かが、本当に江戸の都市計画を最初からやり直したいと願ったのであれば……。
これはあくまでも、明暦の大火に対して語り続けられている噂話に過ぎない。