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徳川家康のひ孫・女一宮はわずか7歳で天皇に即位して明正天皇となった

歴史に残るあの事件の黒幕【第3回】


自分の孫やひ孫を天皇にする。藤原道長(ふじわらのみちなが)や平清盛(たいらのきよもり)など権力の頂点に立った者は、一度は夢見ることのようだ。徳川家康(とくがわいえやす)も例外ではなく、そのために孫娘を天皇のもとに送り込んだのだが……。


寛文元年(1661)1月15日に京都では大火事が発生し、御所なども焼失した。翌年の寛文2年、立て直した明正天皇が退位後住んだところの図面。明正院御所(寛文度)上宗絵図(寛文2)/東京都立中央図書館

  江戸幕府を開いた徳川家康のひ孫に天皇がいたことを皆さんご存じだろうか。しかも女性である。女性の天皇は歴史上八代、人数にすると六人。代数と人数が合わないのは一度退位した天皇が再び天皇の座に着いた重祚(ちょうそ)があるためだ。これは女性が天皇になる場合、様々な事情からリリーフとして即位することが多かったことが関係している。

 

 徳川家康のひ孫・明正(めいしょう)天皇が即位したのも、父・後水尾(ごみずのお)天皇が突然、「もう天皇なんかやっていられるか」と退位してしまったからだ。これには、先代から続く天皇家と徳川家との確執が関係しているといえるだろう。徳川家康は、将軍という武士のトップになっただけでは飽き足らず、かつての藤原家のように天皇の外戚となり名実ともに日本の権力を手中に収めたいという野望を持っていたようだ。

 

 後水尾天皇は、先代後陽成(ごようぜい)天皇の第三皇子である。もともとは第一皇子が父の跡を継いで天皇になる予定だったが、後陽成天皇が自分の弟八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王に継がせたいといい出し、すったもんだの挙句、第三皇子の政仁(ことひと)親王が後水尾として天皇の座に就くことになったのだ。この時、徳川家康が皇位継承に嘴(くちばし)を挟んだ。つまり、後水尾天皇の即位に尽力したのが徳川家康だったのだ。このため後陽成天皇の心の中にしこりが残ったのか、我が子ながらも後水尾天皇に冷たい態度をとるようになったという。

 

 さて、明正天皇の母は、徳川家康の三男で二代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の五女・和子(まさこ)。彼女が生まれて間もないころから、将軍の娘が天皇家に入内(じゅだい)といううわさがささやかれるようになった。後水尾天皇とは一回り近く年の差があったが、当時としては珍しいことではない。しかし、この結婚もいろいろと問題が起こり、すんなりとは進まなかった。婚約が決まり、準備が本格化し始めたところで、大坂の陣が起こり、徳川家康が亡くなり、続いて後陽成上皇の崩御と不幸が重なったのだ。

 

 その喪が明けた元和四年(一六一八)、後水尾天皇が仕える女性に男児を産ませたことが発覚した。さらに翌年同じ女性が今度は女児を出産。秀忠は、この女性の兄を含む公家六人を流罪などに処した。これに対し後水尾天皇は不満を抱いていたという。

 

 元和六年六月十八日、和子が入内。和子十四歳、天皇は二十五歳だった。入内から三年後の元和九年十一月十九日に女児が誕生。これがのちの明正天皇である。寛永三年(一六二六)、和子が第三子を出産。待ちに待った男児で、高仁(すけひと)と名付けられた。誕生の翌年、後水尾天皇は、高仁親王が四歳になったら譲位する意向を幕府に伝えた。この時点で先に生まれた男児は亡くなっていたから、高仁親王が後水尾天皇の唯一の男児であった。禁中並公家諸法度によって行動が縛れている制限されている天皇より、自由度の高い上皇になりたかったようだ。これを受けて幕府は、その準備に取り掛かった。

 

 しかし、その二年後高仁親王が死去してしまう。ちょうどそのころ、最高位の僧侶にだけ許されている紫衣(しえ)を着る許可を寺から求められるまま天皇が与えていたことを幕府に咎(とが)められた。世にいう紫衣事件である。沢庵(たくあん)などがこれに抗議し、幕府に処分された。何か事件があると日本の頂点にいるはずの自分をないがしろにして、物事を処理してしまう幕府への不満が積もり積もったのであろう。

 

 寛永七年(一六三〇)十一月八日、午前八時、後水尾天皇は突然、公家たちに参内するように触れを出す。そして、午前十時頃参集してきた公家たちの前で譲位を宣言したのだ。何も知らされていなかった幕府は、一か月半後これを黙認。この時わずか七歳の史上最少の女性天皇が誕生したのである。しかし、わずか七歳では政治を行えるはずもなく、後水尾上皇の院政が行われることなる。この即位には次の男児が即位できるまでの繋ぎという考えがあったようである。それを証明するかのように明正天皇は寛永二十年、二十一歳の時に異母弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位する。

 

 明正天皇は退位後五十年以上も生きたが、一生独身で、どこかに出かける時には両親のどちらかと一緒ではなければならないなど息苦しい生活を送ったという。

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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