「長篠の戦い」のスゴい伝令役は、鳥居強右衛門だけじゃない!
日本史あやしい話4
織田・徳川連合軍と武田勝頼軍とが戦いを繰り広げた長篠の戦い、その激しい戦いのさなか、命を賭けて主家の窮地を救わんとした人物がいた。それが、後世「武士の鑑」とまで称えられた鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)であったことは、よく知られるところである(「どうする家康」では岡崎体育が演じた)。しかし、その陰に隠れているが、もう一人の伝令役・鈴木金七郎(きんしちろう)がいたことも忘れてはならないだろう。その活躍ぶりとは、いったいどのようなものだったのだろうか?
■足軽から「武士の鑑」へ
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「鳥居強右衛門敵ニ捕レ味方ノ城中ニ忠言ス」(東京都立図書館)
もともとこの鳥居強右衛門、身分は武士と農民の間に位置するような足軽にすぎなかった。にもかかわらず後世、「武士の鑑」として賞賛されたのはなぜか? それは、彼が自らの命をもものともせず、主家である奥平家の窮地を救ったからであった。今回はその経緯を振り返ってみることにしよう。
時は、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼とが戦いを繰り広げた「長篠の戦い」のさなか、天正3(1575)年5月のことであった。前月には武田信玄が入滅。息子・勝頼が跡を継ぐも、その傘下にいた奥平(おくだいら)家の当主・貞能(さだよし)が徳川家に寝返ったことで、強右衛門も徳川方として、この戦いに加わっていた。
三河国の東端に位置する長篠城を守るのは、奥平貞能の長男・貞昌(さだまさ)であった。500の兵をもって守りを固めるも、勝頼率いる1万5000もの武田軍が押し寄せてきたからたまらない。兵糧庫も焼かれて絶体絶命。もはや降伏するしか手立てがない、というところまで追い詰められていたのである。
そして最後の手段が、「家康がいる岡崎城へ、援軍を要請する」ということ。その使者としての役目を仰せつかったのが、この強右衛門であった。しかし、その頃の長篠城といえば、周囲をぐるりと武田軍に取り囲まれ、一分の隙も見当たらないという状況である。
そんな中の、強行突破。手立ては、下水口に潜り込んで、豊川をたどって脱出するという、実に危険極まりない方法であった。さらにそこから片道50キロはゆうに超えそうな道のり(65キロとも)を一気に駆け抜けて岡崎城へたどり着いたというから、驚くばかりの体力である。ともあれ援軍を要請、その確約を得るや、休む暇もなく再び長篠城へと駆け出した。
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