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信康家臣の中枢が画策した「大岡弥四郎事件」

史記から読む徳川家康⑳


5月28日(日)放送の『どうする家康』第20回「岡崎クーデター」では、武田軍の策略に乗った岡崎城の謀反の様子が描かれた。主君の徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)への不平不満を躊躇(ちゅうちょ)なく口にし、反逆されて当然、と居直る家臣たちに、一同は呆然とするのだった。


武田勝頼の術中にはまった岡崎城の反乱

愛知県豊橋市の吉田城跡。1565(永禄8)年に城を攻め落とした徳川家康は、重臣の酒井忠次を配置し、三河国東部の要とした。松平信康の拠る西の岡崎城と、徳川家康の居城である東の浜松城のちょうど中間に位置している。

 武田信玄(たけだしんげん)の三回忌を終えた後継者の武田四郎勝頼(たけだしろうかつより/眞栄田郷敦)は、徳川領への侵攻を本格化させた。標的となったのは、徳川家康の嫡男である松平信康(まつだいらのぶやす/細田佳央太)の居城である岡崎城だった。

 

 浜松城の家康は病に倒れて救援に向かうことができない。代理を務める酒井忠次(さかいただつぐ/大森南朋)は、岡崎城に本多忠勝(ほんだただかつ/山田裕貴)や榊原康政(さかきばらやすまさ/杉野遥亮)らを岡崎城に派遣。そのなかには、臣従したばかりの井伊虎松(いいとらまつ/板垣李光人)の姿もあった。報告を聞いた家康は、相手が武田ということもあって一抹の不安を拭い切れない。

 

 その頃、岡崎城では武田軍の誘いを受けた大岡弥四郎(おおおかやしろう/毎熊克哉)以下、謀反(むほん)を企(たくら)む者たちが結集。信康を討ち、勝頼を迎え入れる算段を確認し合っていた。

 

 その夜、弥四郎たちは信康や家康の正室・瀬名(せな/有村架純)の寝込みを襲う。しかし、計画を事前に知った石川数正(いしかわかずまさ/松重豊)らが阻止し、弥四郎らは捕縛された。

 

 岡崎城の計画が失敗に終わったと知った勝頼は、岡崎城攻めを中止。軍勢を吉田城に向ける。目的は、浜松城の家康を引きずり出すことだという。

 

 吉田城付近で両軍が激突するなか、瀬名は歩き巫女(みこ)の千代(古川琴音)を築山に招いていた。瀬名は、武田軍の命を受けた千代が、弥四郎らを謀反に導いた張本人だと見抜いていたのだった。

 

本格化する徳川対武田の戦い

 

 1573(天正元)年910日、徳川家康は長篠城(ながしのじょう/愛知県新城市)を陥落させた(『当代記』)。この勝利で武田軍を一時撤退させることに成功したものの、遠江(とおとうみ/現在の静岡県西部)には武田方に与する姿勢を崩さない者も多く、予断を許さない情勢だった。

 

 翌1574(天正2)年1月、上杉謙信(うえすぎけんしん)は上野(現在の群馬県)に侵攻することを家康に通知。謙信は織田信長(おだのぶなが)にも伝えており、どうやら両者に上野侵攻の援護を要請したものと考えられる。信玄亡き後の武田家に揺さぶりをかける一環だったらしいが、その頃、信長は一向一揆に対応していたために身動きが取れなかった。そこで家康は単独で遠江・二俣城(ふたまたじょう/静岡県浜松市)の攻撃を開始している。

 

 一方、武田勝頼も織田・徳川の領地である東美濃と奥三河に侵攻を開始。同月27日には明知城(あけちじょう/岐阜県恵那市)などを攻撃している(『信長公記』)。武田軍の勢いは岐阜や岡崎に手が届きそうなほどだったが、謙信の上野侵攻が始まると、勝頼は深入りを避けて軍を撤収した。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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