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家康に利用された吉川広家の「打算」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第23回

■家格上昇に固執する吉川広家

関ヶ原の戦い後、吉川広家が移封された岩国城。写真は1962年に「天守構造図」という絵図をもとに建てられた復興天守。

 吉川広家(きっかわひろいえ)は、毛利家を支える両川の吉川家の後継者として長きに渡り、毛利輝元(もうりてるもと)とその嫡子秀就(ひでなり)を支えた忠義の武将のイメージが強いと思います。

 

 関ヶ原の戦いでは黒田長政(くろだながまさ)と内通し、毛利家存続のため安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に西軍参加の責任を押し付けています。そして、本領安堵を家康に反故にされ御家取り潰しになるところを、自身に与えられる予定の周防長門(すおうながと)を譲り、毛利家の存続に尽くしたことから、忠臣としての印象を持つ方も多いと思います。

 

 しかし、実際の広家は毛利家からの出奔(しゅっぽん)や独立大名化を企てるなど、忠義とは正反対の行動を取っています。これには吉川家の置かれている立場を見据えた広家の「打算」が関係しています。

 

■「打算」とは?

 

「打算」とは辞書によると「勘定すること。利害や損得を見積もること」とされています。「打算」と混同されがちな言葉に「計算」がありますが、「計算」は予め行動する前に結果を予測し、それを予定に含むという意味が含まれています。まずは行動する事を前提にしている点で異なります。

 

 しかし「打算」は、利害や損得を考えて自分の利益がなければ行動しないケースを含むため、マイナスの意味が強い言葉です。父吉川元春(もとはる)の後を継いだ広家は、吉川家にとっての利益を優先するような行動を取ります。

 

■吉川家の事績

 

 吉川家は鎌倉時代に安芸国山県郡(あきのくにやまがたぐん)の地頭に任じられた有力国人の一つです。大内家に属していましたが、毛利元就(もとなり)が安芸国を支配下に置くと、次男の元春を吉川家の養子とし継がせます。

 

 元春は兄毛利隆元(たかもと)、その亡き後の毛利輝元を、弟の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに支えます。いわゆる毛利両川体制です。

 

 厳島の戦いでは父と共に陶晴賢(すえはるかた)と戦い、第二次月山富田城の戦いでは主力として尼子家を破っています。また織田政権との戦いでも、尼子の残党を破るなど活躍します。

 

 しかし、信長の死後に権力を奪取した豊臣秀吉(とよとみひでよし)は弟の隆景を高く評価し、強引に豊臣家の直臣として独立大名としています。一方で吉川家は毛利家の一門衆・重臣という地位は始終変わらず、石高的にも小早川家とは大きな差が生まれてしまいました。

 

 そして九州征伐の従軍中に、元春と嫡子元長(もとなが)が病死したため、家督を三男の広家が継ぎます。広家は文禄の役で活躍し、秀吉から日本槍柱七本の一人として賞賛され、続く慶長の役の蔚山城(うるさんじょう)の戦いでも武功を挙げています。隆景亡きあと毛利秀元、安国寺恵瓊たちと毛利家を支えるよう要請されるものの、吉川家の地位は毛利家家臣のままでした。

 

■毛利家中での吉川家の家格

 

 さらに、隆景の養子であった秀包(ひでかね)も秀吉に気に入られて河内に1万石を拝領し、その後別家を建てて筑後久留米13万石の独立大名となっています。秀包は元就の九男です。

 

 秀吉の信任を得た安国寺恵瓊も、6万石の独立大名の扱いを受けていたと言われ、輝元からも信頼され毛利家の外交を主導する地位を得ています。

 

 また、輝元に嫡子秀就(ひでなり)が誕生した事により、養子となっていた毛利秀元(ひでもと)も、秀吉の許可を得て長門を含めた17万石の独立大名扱いとなっています。しかも秀元の実父は元就の継室が産んだ四男の穂井田元清(ほいだもときよ)であり、隆元や隆景と同様に正妻から生まれた元春とは、家中での家格に違いがありました。

 

 一方、広家も11万5千石と大名級の所領を持っていましたが、対外的には毛利家中で最大の家臣という位置づけでした。

 

 元来から広家は、家格を強く気にする傾向があったようです。吉川家の家督を継ぐ前、自身の所領の少なさを憂いて、小笠原家の養子になろうと企みますが、輝元によって阻止されています。そのような広家が、毛利家中における吉川家の立場に不満を持っていたのも当然かもしれません。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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