歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第84回~明智光秀特別編① 享禄元年(1529)3月10日生まれの場合~
織田軍随一の切れ者の実像に迫る
大胆な行動力と繊細さを兼ね備えた光秀像

現在は京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町にある本能寺。本能寺の変が起こった当時は別の場所であったが、天正19年(1951)に秀吉の命で現在の場所に移転した/著者撮影
歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。※四柱推命の説明はページの最後をご覧ください。
今回は大河ドラマ「麒麟がくる」の主役であり、謎につつまれた武将、明智光秀を鑑定する。
しかし、光秀の生年月日は諸説あり、学者の間でも意見が分かれているのが現状だ。そのため今回からは特別編として、可能性が高い生年月日を取り上げて、それぞれ鑑定を行っていきたいと思う。
今回の鑑定では、その一つ、『明智系図』による享禄元年(1529)3月10日生まれとする説を取り上げ、この日に生まれた光秀像を明らかにする。
明智光秀 生年月日①
生年月日:享禄元年3月10日(グレゴリオ暦:1528年4月9日)

明智光秀:亨禄元年3月10日生まれの場合の命式表
光秀の生年月日から命式表を割り出すと上記のようになる。この中で、性格を表す、通変星・蔵干通編星(ぞうかんつうへんせい)をわかりやすく円グラフに表すと、行動力40%、遊び心30%、人脈20%、自立心10%、知性0%となった。

明智光秀:亨禄元年3月10日生まれの場合の性格
知性…様々な分野の知識が豊富で、何かを学ぶことに喜びを感じる。頭の回転が速く、物事を論理的に捉えることが上手
行動力…頭で考えるよりも行動で結果を出す。未知の分野に挑戦する意欲が強く、交渉力や営業力を磨けば成功できる
人脈…さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる。サービス精神が旺盛でコミュニケーション能力も高く人を動かせる。
自立心…他人に依存することなく、自分が信じた道を突き進む強い精神性。リーダーシップを発揮しフリーで活躍できる。
遊び心…楽しいことを企画する等、生活に遊びを取り入れることが自然とできる。芸術面の才能があり、表現力が豊富。
これらを材料に、光秀の性格を読み解いていく。
〇行動力40%と高め!
光秀の行動力は、40%と高かった。頭で考えるよりも行動を起こすタイプだったのだろう。行動力を表しているのは、通変星では「正官(せいかん)」と「偏官(へんかん)」だ。「正官」はまじめでプライドが高く、バリバリ仕事をするお役人タイプ、「偏官」は営業力が高く、足で稼ぐタイプだ。
名門・土岐(とき)家の支流、明智家に生まれた光秀。家を守ろうという意識は高かっただろう。その点はイメージと合致しそうだ。
〇傷付きやすいナイーブさん
主星(しゅせい)という、性格を最も表す、通変星の最も大事な部分に「傷官(しょうかん)」を持っている。さぞかしナイーブ、神経質で、傷つきやすい性格だったのだろう。
光秀は、本能寺の変を起こす1年前、18か条から成る軍規を定めた。それには、鉄砲、槍に加え、指物(さしもの)、幟(のぼり)に至るまで、その数をしっかり規定した。これほど細密な軍規は類がないという。もしかすると、このような神経質な部分があったのだろうか。
光秀が本能寺の変を起こした要因も諸説あるが、信長にいじめを受けたことに腹を立てたことが原因とする怨恨説はよく聞かれる。実際に、光秀ほどの武将がそれほど器が小さいのかという疑問はさておき、主君・信長の一言一句が気になり、それをストレスに感じる繊細な人物、つまり最近知られるようになってきたHSP(Highly sensitive person=人一倍敏感で、繊細な人物)だった可能性はある。
〇芸術肌!
上の「傷官」は芸術の星でもある。
光秀は武将にしておくのが惜しいほどの文化人だったと言われる。茶の湯、和歌など様々な芸能をたしなんだが、中でも連歌はプロの連歌師にも劣らない腕前だったという。
〇組織の王様!しかしピークは若年期?
命式に「劫財(ごうざい)」と「帝旺(ていおう)」の組み合わせを持っている。カリスマ性があり、統率力がある。「劫財」と「帝旺」を併せ持っていると、「組織の王様」という意味となり、組織の中でいかんなくエネルギーを発揮できる。
しかし、光秀はこの組み合わせを、年柱(ねんちゅう)に持っている。命式表の1つの見方として、年柱を若年期(今でいうと20代まで)、月柱を働き盛り(今でいうと30~50代)、日柱を晩年(今でいうと60代以降)としている。
光秀の場合には、「劫財」+「帝旺」は若年期のみで、若い時はリーダーシップをとって何でもできたが、大人になってからはなかなか活躍できず、過去の栄光から抜け出せずに裸の王様になってしまった…とも読み解ける。
実際に光秀は、過去の栄光や先祖の栄光にとらわれて生活していたのだろうか。歴史上の光秀の活躍を見ると、生年月日が明らかでないように、若年期の生活ぶりについても分かっていない。活躍した人物ほど文献に名前が残ると仮定すると、光秀は大器晩成タイプといえそうだ。よって、少し光秀のイメージとは合わない鑑定結果といえるかもいれない。
〇ご先祖とご縁!仏教に精通!
命式表に「墓(ぼ)」を持っている。それも、月柱(げっちゅう)という、仕事や結婚を表す一番大事な部分に持っている。「墓」は先祖とのご縁が深く、墓守りの役割をもつ。また、仏教を深く信仰し、極めようとする。
光秀がご先祖に傾倒していたことは疑う余地はなく、また、宣教師ルイスフロイスも光秀の信心深さを記している。それほど神仏を大切にしていた光秀が、信長の比叡山焼き討ちをどう見ていたかと思うと、このことが本能寺の変の一因になった可能性も否定できない。
〇意外にも知性0%
上の円グラフで示したように、性格は、知性、行動力、人脈、自立心、遊び心の5つの星で表される。光秀は、行動力、人脈、自立心、遊び心は持っているものの、意外にも知性を持っていなかった。
織田軍一のキレ者とも称された光秀。その緻密な計算があったからこそ、裏の裏まで計算しつくす信長を見事に裏切り、本能寺で撃つことができたのだと思う。生まれつきの能力ではないにせよ、その後の環境で知性が備わったと言われればそれまでかもしれないが、筆者としては納得できない部分である。
以上のように、今回は諸説ある光秀の生年月日から一説を採用し、四柱推命で鑑定を進めてきた。そもそも、歴史的な史料がどれほど光秀の人柄を表しているのかわからないということが前提になるが、仏教に精通し芸術性が高いという面では納得できるが、知性がない、ピークが若年期という点では、イメージとやや異なる結果となった。
勝手なる光秀像を求め、次回は有力とされる他の生年月日で、新たに鑑定を行う。
■四柱推命とは?
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。なお、ここでは生まれた時間は鑑定に含めていない。