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江戸の疫癘防除~疫神社の謎⑦~

布多天神社(東京・調布)の祭神を探ると薬祖(少彦名命)に出会う

布多天神というからには菅原道真が祭神のはずが…

 

道真が天神に祀られる前から祀られていた布多天神社本殿(東京都調布市) 写真/稲生達朗

 天神さんと呼ばれているからには菅原道真が祭神になっているんだろうけど、建立された時代がずれてるんじゃないかな、と思っていた。

 

 道真が没したのは延喜6年(906)。延喜は延長のひとつ前の元号だけど、道真が天満天神の勅号を贈られて京都の北野に天満宮が建立されたのは死後40余年も経った天暦元年(947)のことだ。

 

 つまり、道真が天神になる前に、すでに布多天神社は創建されていた。

 

(道真は後に合祀されたってことになるんだろうけど、どういうことなんだろう?)

 

 答えは、簡単にわかった。

 

 布田天神社の延喜式の読みは「ふたてのかみのやしろ」つまり「フタテ神社」と呼ばれていた。それがフタ天神社からフダ天神社となり、フダ天神と通称されるようになった。その頃の祭神は古事記にいう少名毘古那神、日本書紀にいう少彦名命(すくなひこのみこと)だったらしい。少彦名命は農業、温泉、禁厭、医薬などの天津神だ。

 

(なるほど、薬祖かあ)

 

 となれば、疱瘡神社が祀られるのはなんとなくわかるし、道真が勧請されるようになったのもわからないではない。なにしろ道真の怨霊は凄まじく、落雷、日蝕、旱魃、そして疫病まで蔓延させた。恐れおののいた朝廷は、道真を鎮めるために擬神つまり神格化して天満宮を建立した。

 

 それで御霊信仰となるわけだけど、もちろん、疫神信仰にもつながる。さらには、疫病を流行らすのは牛頭天王であるとされ、それが祇園信仰にも繋がっていくんだけど、これについてはすこし擱く。

 

 ともかく、少彦名命と道真が合祀されるようになったのは、そうした背景を考えれば理屈もとおるし、疱瘡神が勧請されたのも頷ける。

 

菅原道真 承和12(845)~延喜(903)肖像『集古十種. 古画肖像之部 上』松平定信編/国立国会図書館蔵

 ちなみに、由緒を質してみれば、フタテ神社が創建されたのは別な場所だったそうだ。

 

 甲州街道を横切って南へ下がった古天神と呼ばれるところにあったらしい。古天神は今では緑地になっているんだけど、昭和の終わり頃、ここに縄文遺跡が発掘された。それだけでなく、弥生時代から江戸時代にかけての墓がいくつも出土した。

 

 そんな人間どもを集めるちからを持った縄文以来の土地から当社が遷座された理由は、多摩川の氾濫によるらしい。文明6年(1474)のことだったそうだから、ちょうど応仁の乱が終わった年にあたる。どうやらそのとき、天満大自在天神こと菅原道真が合祀されたようだ。

 

(けど、氾濫はそれまでもたびたびあったろうし、遷座のほかに理由はないのかな?)

 

 そんなふうに、疑問を浮かべたとき、

 

(あれ、そういえば)

 

 こんなことも、思いだした。

 

 北多摩には、ここのほかにも疱瘡神社があるじゃないか。

 

文明6年(1474)氾濫に襲われたが武蔵野の古代からの中心地だった多摩川。国立公文書館蔵

(次回に続く)

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過去記事

秋月達郎あきづき たつろう

作家。歴史小説をはじめ、探偵小説から幻想小説と分野は多岐にわたる。主な作品に『信長海王伝』シリーズ(歴史群像新書)、『京都丸竹夷殺人物語: 民俗学者 竹之内春彦の事件簿』(新潮文庫)、『真田幸村の生涯』(PHP研究所)、『海の翼』(新人物文庫)、『マルタの碑―日本海軍地中海を制す』(祥伝社文庫)など

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