七尾城攻め1576〜77年<その3>~単なる「合戦屋」ではない謙信の軍略家としての顔
戦国武将の城攻め【解体新書】#015
容赦ない過酷な兵糧攻め! 飢餓、疫病の蔓延で凄惨な地獄絵図

本丸を中心に曲輪(くるわ)が重なり砦が築かれていた七尾城 CG/成瀬京司
天正5年(1577)2月、七尾城包囲を配下に任せた謙信は、奥能登に向けて北上を開始、奥能登の畠山氏支城群を落とすと、3月、七尾城包囲陣に戻った。
しかし、そこで待っていたのは、佐竹義重・宇都宮国綱・結城晴朝ら北関東国衆からの関東越山要請である。謙信が能登に出陣している間に、北関東国衆に対する小田原北条氏の圧迫が強まり、彼らだけでは抗し難くなっていたのだ。
致し方なく帰国した謙信は5月、関東に攻め入って北条方を逼塞(ひっそく)させると、7月には七尾城包囲陣に復帰した。
一方、信長は8月、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉(勝家と仲違いし、途中で離脱)ら総勢4万8000の大軍を加賀に侵攻させた。
加賀一向一揆からの救援要請を受けた謙信は、同月、能登国南西部の末森城攻撃に向かった。
そこに七尾城包囲陣から一報が入る。
七尾城内で疫病が発生し、傀儡当主の畠山春王丸(はるおうまる。5歳)までもが病死したというのだ。
末森城攻撃を配下に任せた謙信は、再び七尾城包囲陣に戻った。七尾城では、疫病の蔓延により1万5000の籠城軍の士気は落ちており、謙信は、調略により七尾城攻略を図ることにする。
(次回に続く)