七尾城攻め1576〜77年<その2>~統一を目指す織田信長と上洛戦中の上杉謙信の角逐の場に
戦国武将の城攻め【解体新書】#014
畠山七人衆と呼ばれる重臣たちの合議制は派閥争いへ

一揆勢と講和し能登国に侵攻した上杉謙信/東京大学史料編纂所所蔵模写
「山市晴嵐」(さんしせいらん)と表現されるその城下の繁栄は一方ならぬものがあり、主街道に面した家臣団屋敷や町屋は、一里の長さに及んだという。
しかし、繁栄を謳歌していた畠山氏も、16世紀中頃になると、跡目争いなどで支配力が衰え、代わりに畠山家臣団の力が強まった。16世紀後半には、畠山氏の権力は形骸化し、畠山七人衆と呼ばれる重臣たちの合議制により領国経営が行われるようになる。
そうなると派閥争いは付きもので、天正年間に入ると、親織田派の長続連(ちょうつぐつら)・綱連(つなつら)父子と、親上杉派の遊佐続光(ゆさつぐみつ)との対立が激しくなっていった。
折しも北陸諸国は、天下統一を目指す織田信長と、将軍足利義昭の求めに応じ、上洛を目指す上杉謙信の角逐(かくちく)の場となりつつあった。
先に動いたのは謙信である。
天正4年(1576)6月、外交方針を転換して信長と断交の上、本願寺及び加賀一向一揆勢と講和した謙信は、8月、1万5000余の軍勢を率いて春日山を出陣、9月から10月にかけて越中を平定、11月には能登国に侵攻を開始し、七尾城を包囲した。
当時、畠山家の実権を握っていたのは親織田派の長父子であり、二人はすぐさま信長に後詰を要請した。しかし織田勢は一揆勢に行く手を阻まれ、能登まで救援に赴けない。
(次回に続く)