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長篠・設楽原の戦いで用いた「鉄砲3千挺」「三段撃ち」は虚構か? 敗北した武田勝頼の判断ミスとは

日本史あやしい話


武田信玄のあとを受け継いだ勝頼。父を乗り越えようと、美濃や三河に侵攻してひと時は快進撃を見せたものの、結局は策を弄する信長に煮え湯を飲まされることに。その悲劇のひとコマが、長篠・設楽原における激戦であった。鉄砲(火縄銃)を駆使する信長に対して、がむしゃらに騎馬隊を推し進めようとする勝頼。勝負は戦い当初から、確定していたようなものであった。いったい、どんな戦いぶりだったのだろうか?


 

■「鉄砲3千挺」「三段撃ち」は史実か?

 

 長篠・設楽原の戦いといえば、武田勝頼率いる精鋭の騎馬隊を、織田信長が最新兵器である鉄砲(火縄銃)を駆使して見事打ち破ったとして知られる激戦である。信長が用意した火縄銃は3千挺。これを「三段撃ち(三列交代射撃)」の新戦法を用いて絶え間なく発砲したことで、武田騎馬隊を次々と撃ち倒していったと語られることが多いようだ。一度発射すると、弾丸と火薬の充てんに手間取る火縄銃。その弱点をカバーするために編み出された「三段撃ち」が、さも史実であったかのように語られたものであった。

 

 ただし、昨今は、この「3千挺」および「三段撃ち」が本当だったのかどうか疑問視されることが多いことも記しておこう。それでも、太田牛一の『信長公記』が記すように、少なくとも千梃の火縄銃が用意されていたことだけは間違いないだろう。

 

 また、「三段撃ち」が史実でなかったとしても、千梃もの火縄銃が次々と撃ち続けられたわけだから、たとえ充てんに手間取ったとしても、実質的には間断なく発砲され続けたに違いない。そこに騎馬隊が、わざわざ正面切ってがむしゃらに突き進んで撃たれにいったのだから、ことごとく撃ち倒されることは必至。負けて当然とも思える愚かな行為であった。

 

■鳥居強右衛門の活躍ぶり

 

 この辺りで、ひとまず勝頼の父・信玄が病没した1573412日にまで、時計の針を巻き戻してみよう。この時は甲斐へ舞い戻ってきたものの、偉大な父に負けじと意欲満々であった勝頼にとって、じっと我慢することなどできなかったのだろう。はやくも翌15741月には、意気揚々、信長が拠点とする東美濃へと進軍を開始したのである。信長が領する岩村城や明知城まで陥して、その軍勢を撤退させるという快進撃を見せていたことも見逃してならないだろう。

 

 さらに、徳川方の拠点の一つであった高天神城への攻撃(第一次高天神城の戦い)でも、勝頼軍が圧勝。父・信玄すら成し遂げられなかった成果を上げたことに気を良くして自信満々。15754月には、その勢いのまま東三河にまで侵攻。城主・奥平貞昌(信昌)が守る長篠城を取り囲んで、一気に落城させようと目論んだのであった。武田軍1万5千に対して、城を守る兵の数はわずか500。すぐに開城するものとタカをくくっていたものの、長篠城側が200挺の火縄銃を駆使して反撃。兵糧庫を焼かれて食糧難に陥ったものの、これもものとせず、2週間もの間、武田軍からの猛攻を耐え続けたのであった。

 

 この時、貞昌の家臣・鳥居強右衛門が密使として、徳川家康の本拠・岡崎城へと駆け出して援軍を要請。信長軍・家康軍の計3万8千もの大群が即座に進軍する確約を得るや、すぐさま長篠城へと引き返したこともよく知られるところである。残念ながら、城にたどり着く前に捕らえられてしまったが、ここで勝頼から降伏するよう説得せよとの命じられたことを逆に利用。味方を前にするや一転、「2〜3日のうちに援軍がやってくるから耐えろ!」と大声で叫んだことで、城内の兵たちの意気が上がって落城を免れたのである。これに怒った勝頼が、すぐさま強右衛門を逆さ磔にして殺してしまったこともまた、よく知られるところだろう。

 

■馬防柵へと誘い込まれた勝頼の愚かさ

 

 この長篠城の攻略に手こずったことが、この戦いに敗れただけでなく、後に武田氏が滅亡することとなる大きな要因となったようである。美濃の信長と三河の家康の連合軍が、大挙して援軍として駆けつけてきたことで万事休す。連合軍の総数は3万8千。これに対して勝頼軍は1万5千。数の上からだけ見れば、連合軍の方が圧倒的に有利であった。もちろん、山県昌景や馬場信春、内藤昌秀といった武田側の宿老たちが撤退すべしと勝頼に進言したことは言うまでもない。

 

 しかし、ここで勝頼の判断が狂った。父・信玄を乗り越えるには、この難局を乗り越えるしかないと思い込んだのだろうか。それまでの自らの快進撃を振り返れば、天は我に味方してくれているとまで思ったのかもしれない。加えて、宿老たちと半目し合っていた武田氏の信濃侵攻以降の出頭人(側近)・跡部勝資らが進軍を勧めたことも後押ししてしまった。さらに、織田家臣団の筆頭家老であった佐久間信盛が寝返るとの偽情報を譜代家老の長坂光堅が信じて、勝頼に交戦をけしかけたことも一因であった。

 

 この時点で我を忘れてしまった勝頼。これに対して、現状把握に余念がなく、次々と新たな手を打ち続けてくる信長。この辺りの周到さにかけては、勝頼など遠く及ぶところではなかった。

 

 準備万端、馬防柵を設けた設楽原へと、まんまとおびき寄せられてしまったのだから愚かというべきか。武勇一点張りで思慮に欠けた勝頼。その後家臣たちからも次々と見放され、ついには滅亡の道を歩まざるを得なかったことは、不運だったからではない。それも皆、勝頼の「人間味の薄さ」によるものであったと、そう思えてならないのだ。  

鳥居強右衛門敵ニ捕レ味方ノ城中ニ忠言ス/東京都立中央図書館蔵

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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