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11代将軍・家斉の「不可解な死の真相」とは? 旗本夫人が書き残した将軍の死と実情

炎上とスキャンダルの歴史


■旗本夫人が書き残した「将軍の死」

 

 激動の幕末にさしかかろうとする江戸の街の姿を日記に書きとめた旗本夫人・井関隆子。高い学識と教養の持ち主でありながら、それとは裏腹の噂好きだった隆子は、さしずめ江戸のゴシップガールといえるでしょう。

 

 彼女の夫・井関親興(ちかおき)は、11代将軍・徳川家斉のお側に仕える「納戸組頭(なんどくみがしら)」だったので、将軍家の様々な秘話を今日まで伝えてくれています。

 

 『井関隆子日記』で知ることができるのは、生涯で50人以上もの子供を設け、それと並行して男色にも没入していた家斉の絶倫ぶりだけではありません。家斉の不可解な死についての貴重な情報も提供してくれているのですね。

 

 歴史的文脈において、子供の多さはその人物の健康状態に比例とよく考えられますが、若くして10代将軍・家治の養子となった家斉は、まもなくその後を継いで将軍となり、実子の家慶に将軍を譲ったあとも「大御所」として、かれこれ50年以上もの間、江戸城に君臨し続けました。

 

 しかし天保10年(1839年)頃から家斉の体調は低下し、血痰や咳に悩ませられていたことがわかります。翌年後半に病状がじわじわと悪化し、天保12年(1841年)正月に容態急変。おそらく肺結核だったのでしょうが、そのまま亡くなりました。あまりに静かな死に様だったので、奥医師・吉田成方院がご臨終に気づけなかったほどでした(それを職務怠慢とみなされ、あわれ吉田医師はお役御免に……)。

 

 井関隆子の日記によると、家斉の死は「閏17日」のこと。しかし幕府の公式史といえる『続徳川実紀』など複数の史料によると、家斉が亡くなったのは「閏1月晦日」つまり1月末日で、家斉は「閏113日」、幕府を通じて上野・寛永寺に祈祷料として銀500枚を、そして同月19日には芝・増上寺に銀100枚を贈ったとされているんですね。

 

 それどころか(隆子の日記を信じるなら、すでに死んだはずの)家斉が深刻な病であると公表されたのが119日。翌・20日にはお目見え以上の者(=将軍に謁見可能な身分の者)たち全員がお見舞いのために登城したと書かれています。おそらく13日・19日の徳川家の2つの菩提寺への送金は葬儀の準備金で、20日は葬儀のリハーサルだったのでしょう。

 

 しかしなぜ幕府は、リアルタイムで家斉の死を認めようとしなかったのでしょうか。それは将軍の死が公表されてしまうと、将軍に仕える武士たちには服喪期間が発生し、自身や家族の行動に大幅な制限がかかってしまうからです。

 

 将軍に仕えていた男性たちは、規定の21日もの間、髪を整えたり、ヒゲを剃ることすら禁止されてしまいます。旗本の夫人としての井関隆子も長期間、外に出なくてもいいように食材の買いだめなどをしたりと準備に余念がないのでした。日記には「垣根の壊れた部分も急いで修復させた」とありますが、江戸城のすぐ傍の九段坂(現在の千代田区)あたりに井関家の屋敷はあったので、亡き将軍の葬列が通るのに備え、すこしでもキレイにしておこうと考えたのでしょう。

 

 ちなみに御三家・御三卿をはじめ、当初は50人以上いたけれど、家斉が長命だったので、半分まで減っていた子供たちや、大勢の側室などが家斉に最後のお別れをしたのが131日だったのは興味深いことです。

 

 家斉は皆から愛されており、井関隆子いわく「お側に仕えた女房たち(=お手つきの奥女中や、側室などを暗示)」だけでなく、そうでない女房たちも「涙に袖が乾かないほどであろう」。家斉の逝去は、ひとつのよき時代の終わりを意味していたようです。

イメージ/イラストAC

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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