メジャーチームが4回も日本チームに負ける? 70年越しのドジャースの2連覇と日米野球
あなたの知らない野球の歴史
■70年前の雪辱を果たしたドジャース
2025年11月1日、ドジャースはワールドシリーズ(以下WS) において21世紀に入り初めて2連覇した。大谷翔平、山本由伸、佐々木朗希など日本人選手の活躍は抜きんでていた。デーブ・ロバーツ監督の卓越したリーダーシップ、選手の結束意識、球団のバックアップ、様々な形の総合力で頂点に到達したと言えよう。
それにしてもMLBの多層的なポストシーズンの形式、また各球団の監督の試合前後のコメント、有能な選手たちの素晴らしいスピーチをみても日米のスポーツ文化の違いがよく分かる。同時にMLBのエンターテインメントには驚かされることが多い。
ロサンゼルス(旧ブルックリン)・ドジャースは1883年創設の古豪球団、ブルックリン・アトランティックスという名称でスタートした。今でこそロサンゼルスに本拠地(1958年)を構えているが、かつてはニューヨークの隣のブルックリンが本拠地だった。1958年に新スタジアム建設を巡ってニューヨーク市当局と対立したドジャースはジャイアンツを誘って西海岸に移転することになる。ニューヨークからドジャースとジャイアンツが抜け、ブルックリンの住民はドジャースのオーナーだったウォルター・オマリーに激怒したことはあまりにも有名だ。
さて、ドジャースのリーグ優勝は今回で26回、ワールドチャンピオンは9回を数えるが、1955年までリーグ優勝は11回だが、前年までWSではことごとく敗退していた。立ちはだかったのはヤンキース。5回連続でドジャースはWSで敗退、6回目のWS1955年、ついにヤンキースを破ったのである。今から70年前にシリーズを制覇するという遅咲きの出来事だった。
ところでWSの優勝は、ヤンキースが27回(リーグ優勝41回)、カージナルスが11回、レッドソックス、アスレチックス、ドジャースが9回、ヤンキースがダントツに多いことが分かる。なにしろベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジョー・ディマジオ、ミッキー・マントル、レジ―・ジャクソンと豊富な資金にものを言わせて20世紀は次々とスーパースターを次々と獲得したこともあり優勝回数は他球団を圧倒している。
一方、ドジャースは1955、1959、1963、1965、1981、1988、2020、2024、2025とWSを制しているが、ヤンキースは 1947、1949、1950、1951、1952、1953、1956、1958、1961、1962・・・とダントツの強さを発揮している。最近ではヤンキースは1998、1999,2000の3連覇が最後のWS連覇である。直近では2009年松井秀喜の活躍で久しぶりに優勝、彼はシリーズMVPに選出されている。
さて、WSは1903年からア・リーグとナ・リーグの優勝チームの対戦だった。1969年に球団は24に増え、これによってポストシーズンも変化した。リーグチャンピョンシップシリーズが導入され東西両地区の1位チームを軸に4チームがポストシーズンの出場、1994年からは2チームにワイルドカードを与えるという奇策が登場、8チームによって争われた。野球シーズンを簡単に終わらせたくないこと、つまり観客動員を考えての方策だった。
その後2011年にディビジョンシリーズが始まり、続いてリーグチャンピオンシリーズ、最後にWSと試合数はさらに増加した。2022年も改革が続き、ついに10月はポストシーズンの長く続く過酷な期間になった。ヤンキースのWSの5連覇、それと3連覇は確かに素晴らしいが、今回のドジャースの2連覇は、昨今の改革でいっそう過酷なシステムになったポストシーズンでミラクル的な勝利ということができる。
1953年冬、ウォルター・オルストンが監督に就任したころ、ドジャースはジャッキー・ロビンソン、ドン・ニューカム、ロイ・キャンパネラ、デユーク・スナイダーなど黒人選手を含む好選手がそろっていて黄金時代を迎えていた。ただヤンキースと違い圧倒的なホームラン打者が育たず、彼はバントなどを多用したスモール・ベースボールを展開したことが日本などその後の野球界に影響を与えることになる。
さて、ドジャースのシリーズ初優勝についてだが、ドジャースは1951年にリーグ2位、1952年は1位、WCでヤンキースに敗北、1953年も1位だったがWCでは再びヤンキースに敗北、1954年はリーグ2位、1955年にリーグで1位、かくして6度目のヤンキースとの対決がはじまった。第1戦、第2戦をヤンキースが勝利、第3戦はジョニー・ポドレスの力投、第4戦はキャンパネラやホッジスにホームランが出てドジャースが連勝、第5戦ではスナイダーが連続ホームランでドジャースが勝利して王手をかけた。第6戦はヤンキースが雪辱、両チーム3勝3敗となった。2025年と似た状況だ。第7戦、ポドレスが2対0でヤンキースを完封、ついに球団創設初のワールドチャンピオンとなった。
エースのドン・ニューカムが第1戦で敗れて以後は登板がなく、このシリーズ2勝を上げたジョニー・ポドレスがこの年から新しく制定されたWSのMVPに選ばれた。
翌1956年もリーグ優勝して再びヤンキースとWSを争った。ドジャースは勢いがあり2連覇を狙っていた。WSが始まる前の9月10日、米マスコミはドジャースが訪日することを大々的に発表した。読売の重役鈴木惣太郎は、20日ニューヨークでウオルター・オマリーに会見、日米野球興行の契約書を交わした。一方、ドジャースは2年連続のリーグ優勝を成し遂げ、いよいよ前年に続いて2度目のチャンピオンを目指してのWSが始まった。
ドジャースも強かったが、この年のヤンキースも強かった。ミッキー・マントルが三冠王、投手陣もジョニー・カックスが18勝、またドン・ラーセンなど才能豊かな選手がそろっていた。一方、ドジャースは、デュ―ク・スナイダーがホームラン王、エースのドン・ニューカムが27勝で最多勝、この年から制定されたサイ・ヤング賞の初代受賞者となった。
両チーム、実力的には五分五分、シリーズは文字通り死闘になった。第1戦は6対3でドジャースの勝利、第2戦はニューカムが打たれたが13対8とドジャースの連勝、だが第3戦は3対5でヤンキースの勝利、第4戦は2対6でヤンキースの連勝、両軍イーブンで折り返した。まさに激闘だった。ここで驚くべき快投があった。第5戦はヤンキースのドン・ラーセンがWSで史上初の完全試合の0対2で勝利したのだ。先発野手の8人のうち、半数の選手が後の殿堂入りというドジャースの強力打線はラーセンの投球に沈黙した。第6戦、延長10回にジャッキーのサヨナラヒットで今度はドジャースが勝利、再び五分の3勝3敗の死闘で最終戦にもつれこんだ。
第7戦、ドジャースはエースのニューカムが登板、しかし初回にヨギ・ベラに2ランを打たれ、3回にまたもやヨギ・ベラに2ランを打たれ、4回もソロホームランを打たれてノック・アウト。ヤンキースは3年ぶりにワールドチャンピオンになった。
実は9月下旬の対パイレーツ戦でニューカムは肘を痛め、彼は隠してマウンドに上がっていたのだ。オマリーはこれを知らず、後に双方に溝を生む原因になるが、ともあれこれが日米野球にも反映される。
ところで10月10日の最終戦、エベッツ球場のゴンドラで鈴木惣太郎と戦況を見守っていたオマリーら球団幹部は、優勝がかかった最終戦での大敗に茫然自失だった。優勝した後に気分よく日本遠征という目論見はすっかり失われてしまった。鈴木もオマリーと共に完敗に落胆した。しかし、予定通り休む間もなく日本に向かうことになる。
敗戦投手のニューカムはすっかり気落ちしてオマリーに「小切手を返して日本へ行かぬ」と言っていた。さらに空港では飛行機が出発する直前に、彼は雲隠れしてしまった。驚いたのはドジャース幹部だ。必死に空港内を探し回って見つけ出し、ドジャース一行はニューヨークのアイドルワイルド空港(現在のジョン・F・ケネディ空港)を出発、ロサンゼルス、ハワイ経由で訪日した。
しかし敗戦の後遺症は覆うべくもなく10月19日の第1戦、対巨人戦で競り負け、第3戦も惨敗、ここでオマリーが選手を集めて鼓舞して巻き返し結局14勝4敗1分けで遠征は終了した。だがメジャーチームが4回も日本チームに負けるのは前例がなかった。特にニューカムが登板して打たれたため、マウンドに二度と立たなかったこともありWS敗退の後遺症はエースを狂わせてしまい、ドジャースの圧倒的な力を見せることはできなかった。幸いだったことは、鈴木惣太郎とオマリーの親交が深まり、後の巨人のベロビーチキャンプにつながる関係を結んだことだった。
1955年1956年は、ドジャースは黄金時代を迎え2連覇に手は届かなかったが、2024年2025年と見事に連覇を果たし70年前の雪辱を果たしたのである。

ドジャースタジアム