戦国を代表するキリシタン大名で北九州の覇者[大友宗麟]の<大友家>は源頼朝にルーツを持つ名家だった⁉【戦国武将のルーツをたどる】
戦国武将のルーツを辿る【第11回】
日本での「武士の起こり」は、遠く平安時代の「源氏」と「平家」に始まるという。「源平」がこれに当たるが、戦国時代の武将たちもこぞって自らの出自を「源平」に求めた形跡はある。だが、そのほとんどが明確なルーツはないままに「源平」を名乗ろうとした。由緒のあるか確たる氏素性を持った戦国大名は数えるほどしかいない。そうした戦国武将・大名家も、自分の家のルーツを主張した。絵空事も多いが、そうした主張に耳を貸してみたい。今回は北九州の覇者[大友宗麟]の家の歴史にせまる。

大友宗麟銅像
不思議なことに九州には、鎌倉幕府や幕府そのものを開いた源頼朝とのつながりを標榜し、それを一族のルーツとして信じてきた氏族が多い。薩摩の島津氏なども、そうした氏族のひとつであるが豊後(ぶんご)の大友氏もまた、そうしたルーツ話をもつひとつである。
豊後を支配した大友氏の初代・能直(よしなお)は「頼朝の妾腹(しょうふく)の子ども」と伝えられてきた。つまり、頼朝の妾腹が生んだ庶子が、大友家の始祖であるというのである。この点は、薩摩の島津氏と似た話になる。島津氏は、頼朝と通じた丹後局が頼朝の妻・北条政子の嫉妬を怖れて西国に逃れ、生んだ子が初代であるという。
大友氏の場合は、島津氏ほどの詳細なエピソードは持たないが、代々「頼朝の子」の家を標榜してきたのであった。
その家系から戦国時代になって、大友宗麟(義鎮)が出た。宗麟は一時「北九州の三前三後」といわれた豊前・豊後、筑前・筑後、肥前・肥後6ヶ国の守護であり、室町幕府からは「九州探題」という九州地方を統制するための職制を受け持っていた。
宗麟は北九州ばかりでなく、その全力を使って九州全土の支配権を確立しようと動いた。だが、背後にいる中国地方の覇権を握った毛利元就とと戦わねばならず、さらには江所領の6ヶ国に地盤を持つ地方豪族(国衆)たちとも戦わなければならなかった。
元来仏教徒であった宗麟は、こうした戦いに勝つための新しい武器を必要とした。それが、鉄砲であり大砲であった。宗麟は、ポルトガルの施設に依頼して最新の大砲や弾薬を買い整えた。こうした新しい武器を使う戦術は、国衆を圧倒した。地域紛争をさらに勝ち抜くためにポルトガルの歓心を買おうと思った宗麟は、仏教を捨てて、キリスト教に改心・帰依して「ドン・フランシスコ」という洗礼名を受け、以後はそう名乗るようになった。
それ以前、宗麟が22歳の時に出会ったのがフランシスコ・ザビエルであり、当時山口にいたザビエルを、宗麟は豊後の府内(大分市)に招き、最高の礼をもって厚遇した。ザビエルの布教活動を許し、教会まで建てた。半分は、キリスト教というヨーロッパ発の信仰に惹かれたのだが、半分以上はヨーロッパの武器・弾薬に対する魅力であった。だが、宗麟の保護のお陰で領内ではキリスト教が布教し、文化も発展した。宗麟は貿易も盛んに行い、近隣諸国を圧倒し始めた。
それでいながら、九州の歴史や伝統には深い理解を示し、鹿も権威的な性格でもあったから、古代から九州の重要な場所である「太宰府」は重視した。ここを守るための前線基地である岩屋城と、その本城である宝満城を築いた。後に、ここを戦さ上手で知られる高橋紹運(たかはしじょううん/立花宗茂の実父)に守らせた。
ところが、宗麟の大友家は、北九州6ヶ国の守護と九州探題を最盛期にして。徐々に翳りを見せ始める。薩摩を本拠とする島津氏が、元亀3年(1572)の「木崎原合戦」で日向を支配していた伊東義祐の軍を破ると、一挙に大隅までの3ヶ国を統一して南九州の雄となったことに端を発した。
宗麟は、自分に泣きついてきた伊藤義祐(いとうよしすけ)を庇護した。そのうえで伊東氏が大友氏の縁戚であることを理由に日向侵攻を決め、4万3千という大軍で出陣した。だが天正6年(1578)の「耳川合戦」で大敗し、大友氏凋落の原因を作った。
この後、台頭してきた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)と島津、大友は、九州の派遣を巡って三者鼎立という時代を迎える。しかし島津は強い。圧倒され続けた宗麟は、天正14年(1586)4月、大坂城に豊臣秀吉を訪ね援軍を要請する。こうして、秀吉の「島津征伐」が決定され、採取的に宗麟の大友家は生き残ることになる。
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