息子・伊達政宗を毒殺しようとした母・義姫とは何者か? 「毒殺未遂事件」は政宗の自作自演だった?
日本史あやしい話
■秀吉を前にした政宗による自作自演説
もともと義姫が、最上義守の娘であったことは前述した。最上家といえば、東北中南部にその名を轟かせた名門一族で、戦国大名・伊達家と長く抗争が続いていた。それを解消するための政略として、最上家の義姫が、伊達輝宗のところへ嫁がされてきたこともよく知られるところだろう。
その夫・輝宗が、跡を継いだ息子・政宗の命によって、結果として無残な殺され方をしたことを覚えておられるだろうか。1585年のことであった。ここで、伊達家にとってのもう一人の宿敵・畠山義継なる二本松城主を登場させよう。その御仁が、輝宗を拉致しようとしたことが発端であった。最終的には、義継が逃げようとすることになるが、その際、父が人質として身近にいるにもかかわらず、義継共々、銃で撃ち殺すよう、息子・政宗が命じた(父の命によるものでもあったが)というのだ。つまり、義姫からみれば、我が子が我が夫(政宗にとっては父)を殺したということになるわけで、子といえども、政宗を恨んだことは間違いないだろう。
ここでさらにもう一人、重要な人物をも登場させておきたい。それが、最上義守の長男で、義姫にとって兄にあたる義光である。兄の義光と妹の義姫は、わずか2歳違いで、仲の良さもよく知られるところであった。後に出羽山形藩の初代藩主となる人物であるが、この義光の妻が奥州探題・大崎義直の娘・釈妙英(娘が秀次の側室として無残な死を遂げた駒姫)であったことが関係する。
1588年、政宗がこの大崎氏の領土に侵攻したことが問題であった。その大崎氏に加担して出兵したのが、義姫の兄の義光だったからだ。つまり、政宗とは叔父、甥でありながらも、敵対する間柄となってしまったのだ。
この兄・義光と息子・政宗の対決に、義姫が仲介役を買って出たというお話もよく語り継がれるところであるが、それでも、兄は妹・義姫に対し、政宗のことを悪しざまに語り続けたことは想像に難くない。となれば、少なくともこの当時だけを捉えてみれば(晩年は別として)、母・義姫と息子・政宗は、確かに不和状態にあったと考えても不思議ではないのだ。
こうした背景があった後の、秀吉との関係悪化である。これを何とか取り繕わなければとの思いから仕立て上げられたのが、この義姫による政宗毒殺事件だったという気がしてならないのだ。参陣が遅れた理由を毒殺事件に巻き込まれたからと誤魔化そうとしたのではないか? そんな気配が濃厚なのだ。
ただし、それを筆者は、義姫による真の暗殺未遂事件だったとは思わない。策を弄するのが得意な、政宗による自作自演だったと見なしている。当時、何かとわだかまりのあった弟・小次郎を事件の首謀者に仕立てて殺害。その上で、秀吉に対し、毒殺未遂事件があったものの、手を貸した母だけは許したと弁明して情を誘ったのではないかと。もちろん、これは筆者の憶測にすぎないから本当かどうかはわからないが、全くありえない話ではないだろう。
不運だったのは、夫・輝宗ばかりか、息子・小次郎まで殺されてしまった義姫の方で、政宗憎しとの思いはあったものの、我が子を手にかけるほどの悪女だったとは、とても思えないのだ。息子とは多少わだかまりがあったものの、終始、最上家及び伊達家安泰に奔走したことを考えれば、政宗にとって良き母であったかどうかには疑念が残るものの、両家にとってはなくてはならない存在であったというべきだろう。

イメージ/イラストAC
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