偉大な王たちのミイラを守るために移した驚きの「隠し場所」とは?【古代エジプトミステリー】
本当はおもしろい「古代エジプトの歴史」入門
■偉大な王たちのミイラを盗掘被害から守れ
死後の再生復活とイアルの野と呼ばれた来世の楽園での豊かな生活を願った古代エジプト人たちは、死後に自分の魂が戻るための器としてミイラを作った。王たちのミイラは、そのなかでも技術的にも用いられた素材としても最高峰のものであった。その結果、ミイラの保存状態が極めて良いのである。「まるで生きているかのよう」と表現される所以はそこにある。それゆえ世界各地で博物館のガラスケースのなかに展示されている王や王族のミイラは、それ以外の何万、何十万体と製作されたその他多数のミイラとは見た目が違い美しいのだ。
古代エジプト王たちのミイラは聖なる存在であった。それゆえ最高の技術を持つミイラ製作職人たちによって、腐敗しないように丁寧に作られた。完成した後は、破損しないように何重もの木棺(写真1)や石棺にミイラは入れられ、盗まれないように地下の埋葬室などに納め、盗掘者の目から隠したのだ。そのことは何重にも厨子や棺を重ねたツタンカーメン王墓の埋葬例を見れば明らかであろう。しかし、その甲斐もなくたいていの墓は、不埒な者たちによって暴かれ、残念なことに盗掘は現在に至るまで幾度も繰り返されてきたのだ。

(写真1)ミイラを収める木棺
撮影:大城道則
しかし、その被害から逃れた例が知られている。その方法とは盗掘者を惑わすために複雑な構造の墓を建造したとか、墓に罠を施したとかいうものではなく、単純簡潔なものであった。本来墓のあるべき場所(たとえば王家の谷など)とは異なる場所にあえて隠したのである。王家のネクロポリスである王家の谷から他所へ王のミイラを移すことは、苦渋の選択であったはずだ。ただそれほど盗掘被害は深刻であったのであろう。
古代エジプト王家に関わる事物を隠した場所としては、神殿内で王の彫像などが大量に発見された「カルナクの隠し場」が有名であるが、さらに良く知られた「隠し場」として、ルクソールのナイル河西岸にあるデイル・エル=バハリのものが知られている。デイル・エル=バハリは、かの有名な女性のファラオであるハトシェプスト女王の葬祭殿(写真2)が存在している場所である。毎日のように大量の観光客が訪れるこの世界有数の観光スポットの近くにデイル・エル=バハリの「隠し場」はある。そこには古代エジプト王であるセティ1世とラムセス2世のミイラをはじめとして、身元が判明しているもの、判明していないものを含め多くの王と王族のミイラがあった。ラムセス1世のように棺の断片はあるが、ミイラが同定できない場合もあった。

(写真2)ハトシェプスト女王の葬祭殿
撮影:大城道則
考古学者たちによる組織的な発掘調査ではなく、偶然発見されたその場所の入口は、岩場のなかに隠れるようにあり、そこから下に20メートルほど降りたところに地下空間があった。そこに幾つもの棺とミイラが安置されていたのである。その光景を目の当たりにした発見者たちは驚愕したに違いない。なぜならそこには誰もが知る新王国時代の古代エジプト王の名前「ラムセス」や「セティ」が見られたからである。つまり、彼らは古代エジプト中の神殿の柱に自らの名前を刻んだラムセス大王のミイラを思いがけなく目の当たりにしたのだ。
ただ驚きはそれだけではなかった。後に判明したことであるが、王たちの再埋葬の際に使用された棺や包帯にミイラを再埋葬した日時と場所が役人たちによって記されていたのだ。通称「記録簿(ドケット)」と呼ばれるそれらの記録簿(メモ書き)は、おそらく棺とミイラの移動作業に関わった後の時代の神官たちによるものであった。
例えばラムセス2世の木棺の表面には、ラムセス2世のミイラが三度移動させられたことが記されている。これらの記録簿によると、ラムセス2世のミイラは本来の場所から、王家の谷にあるセティ1世の墓であるKV17に移され、続いて第三中間期の第21王朝の王シェションク1世の治世(紀元前945~924年頃)にデイル・エル=バハリに移されたというのだ。そして王家を敬う信心深い名もなき人物たちの願いとともに、三千年もの間、安らかな眠りにつくことができたのだ。

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