旧海軍の秘密陣地? 東京湾防衛を担った「館山海軍航空隊」と本土決戦用に築かれた「赤山地下壕」のいま
滅びゆく近代軍事関係遺産を追え!【6回】
房総半島の突端、千葉県館山市には戦前対岸の横須賀海軍基地と対峙する形で海軍館山航空隊があった。この周辺には基地を取り囲むように洞窟陣地が多数構築されていた。
■東京湾を守護する房総の要
戦前、日本海軍は全国に主要根拠地(かつては鎮守府)を設置していた。長崎県佐世保、広島県呉と並んで首都防衛の要として神奈川県横須賀に海軍基地を置いていた。この横須賀基地の対岸、ちょうど東京湾湾口を防御するように木更津には海軍航空隊および、第2海軍航空廠(木更津海軍航空隊所属軍用機の修理・改造を担当する工場)が設置された。また、館山海軍航空隊と第2海軍航空廠館山補給工場、さらに横須賀軍需部館山支庫(横須賀海軍基地の食糧・衣服・燃料補給の施設)が置かれた。
日本の首都たる東京の防衛を考慮して、明治時代から東京湾沿岸地域には多数の砲台や要塞が建設されてきた。
明治13年(1880)、神奈川県観音崎に15サンチカノン砲2門が設置されたのを皮切りに、明治23年(1890)には9年以上の歳月をかけて、千葉県富津岬沖合に第一海堡(12サンチカノン砲4門、19サンチカノン砲1門、28サンチ榴弾砲14門)が完成した。
大正3年(1914)には、じつに25年もの長期間をかけて第二海堡(27サンチカノン砲5門、15サンチ連射カノン砲3門)が完成し、大正10年(1921)には、第三海堡(15サンチカノン砲4門、10サンチカノン砲8門)も築かれた。しかし2年後の関東大震災で水没したため放棄されている。
これらによって東京湾内部への敵侵入への防備体制が整った。
さらに、房総半島側では金谷砲台(28サンチ榴弾砲4門)、大房岬砲台(20サンチカノン砲4門)、館山周辺の洲崎第一砲台(30サンチカノン砲2門)、同第二砲台(15サンチカノン砲2門)も設置され、太平洋戦争末期には、洲崎に東京湾要塞重砲兵連隊第二大隊が配備された。
■米軍の館山空襲と赤山地下壕掘削

赤山地下壕の入り口
先述したように館山航空隊と木更津航空隊は首都防衛の重要拠点として位置づけられていた。館山航空隊は昭和5年(1930)に全国で5番目の実戦海軍航空隊として配備された。さらに、昭和16年(1941)には陸上における対空射撃訓練や陸戦隊戦術の向上を目的として館山海軍砲術学校も併設された。
太平洋戦争がはじまり、昭和17年(1942)頃から館山では空襲に備えて防空壕の建設がはじまり、房総半島の地質は凝灰岩質砂岩、同泥岩で構成されており掘削が容易なことから、大規模な広い地下壕建設が進められていった。
赤山地下壕の掘削は昭和19年(1944)頃から本格的に実施されるようになり、北側にある館山航空隊とは地下道で結ばれていた記録が残っている。空襲が激しくなってきた終戦間際には「司令部室」「士官室」「自力発電所跡(200馬力のデイーゼルエンジン2台、発電機2台、変圧器9個)」「応急治療所跡」「御真影奉安殿跡」などが確認されていることから、館山航空隊本体の移動を想定していたことが推測されている。
■現在の赤山地下壕
赤山地下壕は館山市立博物館から車で5分程の位置にあり、駐車場も完備している。入口で手続きと入場料を払うと、ヘルメットと懐中電灯を貸し出してくれる。小さな子供用のヘルメットもあり、壕内散策には便利である。地下壕は全長約1.6キロあるが見学路はその内の600m位。かなり暗いところもあり、懐中電灯は必須である。壕内は外気より4~6度低いため、夏季でもかなり涼しく感じる。手掘りの痕跡と凝灰岩質岩肌の色彩が独特なコントラストを示している施設となっている。
近くには、掩体壕も個人住宅内に残されているが、かつて60ヶ所以上あったものが数ケ所に激減している。

赤山地下壕内部