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「B-29を発見する」ための高度探照灯施設が現存 -米軍空襲に対応した探照灯、聴音機施設-

滅びゆく近代軍事関係遺産を追え!【4回】


先の大戦終戦から80年目の節目を迎える2025年現在、東京周辺に残る近代の軍事関係遺産は毎年のように破壊滅却されている。このような「近代軍事関係遺産」について、東京周辺に限定して紹介していきたい。本企画が遺産保存の一助になれば幸いである。今回は、柏市に残る高度探照灯施設を紹介する。


旧陸軍高射砲第二連隊 照空予習室

 

B-29戦略爆撃機の来襲

 

 1944年(昭和197月、マリアナ諸島サイパン島などが陥落し、前年に設定した「絶対国防圏」が崩壊した。このため、超高度大型爆撃機B-29の空襲が必須となったため、本土防衛の手段が急がれることになる。11月頃になるとB-29が撃墜されることも多くなり、米軍側でも日本本土へのP-51等護衛戦闘機随伴が必至となってきた。つまり、マリアナ諸島から丁度中間地点となる小笠原諸島に護衛戦闘機用、被弾したB-29の緊急着陸用航空基地確保が必要となってきた。ここで、注目されたのが硫黄島であり、日本側もその動きを察知し小笠原兵団司令官に習志野騎兵旅団出身の栗林忠道中将を任命した。栗林は硫黄島に赴任すると、従前の島礁防衛基本であった「水際決戦方針」を改め、「永久陣地抗戦方針」に従い島内各地に堅固な縦深陣地を構築して、上陸した米軍を長期間島内に釘付けする作戦を実行した。これは前年9月、約3ケ月間にわたって上陸した米軍を釘付けにしたペリリュー島の戦いの経験からの作戦であった。

 

 しかし、1945年(昭和203月硫黄島玉砕、6月沖縄戦終結といよいよ「本土決戦」が目前となり、首都圏防衛の緊急配備が必要となってきた。

 

 

■本土決戦作戦策定

 

 一方、連合国側も19453月に対日侵攻作戦「ダウンフォール」を策定、その中で九州侵攻作戦を「オリンピック」、関東平野侵攻作戦を「コロネット」と暗号名を付した。この「コロネット作戦」では、上陸海岸として湘南・茅ヶ崎、九十九里浜の2正面が策定されていたが、主力は茅ヶ崎方面であった。

 

 日本側でも、この作戦を予想して本土決戦用に約128万の陸軍部隊を配置し、第12方面軍(司令官田中静臺陸軍大将)司令部を日比谷に、第36軍司令部を浦和、第51軍司令部を水戸、第52軍司令部を佐倉、第53軍司令部を厚木に配備することになった。さらに、敵上陸地として九十九里浜を第1正面、茅ヶ崎を第2正面と想定し準備を進めることになった。

 

 B-29は「超空の要塞」と呼ばれ、爆弾搭載量が日本のそれとは約9倍と多く、ターボエンジン4基で高度1万mを航行できるだけでなく12.7ミリ機銃×12、20ミリ機銃×1という重武装も装備していた。しかも航続距離が4500キロと、マリアナ諸島から北海道、東北地方を除く日本本土全域が爆撃可能ゾーンとなる能力であった。最初の本土爆撃は、1944年(昭和196月中国大陸成都から九州八幡製鉄所を狙ったもので、同年11月からはマリアナ地区からの攻撃が日常化していく。しかし、日本側の防御体制も整備されてくると損害機数も増加してくる。最終的に撃墜数は約500機といわれている。

 

 当初、マリアナの米第21空軍司令官ハンセル准将は「爆撃の騎士道」を主張し、「軍需工場の精密爆撃」を展開していたが、4ケ月間出撃22回、延べ2,148機の出動でも主目標のどれにも壊滅的な被害を与えることが出来なかった。そこで、1945年2月20日、第20軍司令官に赴任したカーチス・ルメイ少将は太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの要請もあって、日本への爆撃方針を大変換し

 

① 日本の主要工業都市に対しては夜間の焼夷弾攻撃を主とする 

② 爆撃高度は5000~8000フィート 

③ 搭乗員の数は減らす 

④ 各機は個々に攻撃を敢行 

⑤ 東京を主目標

 

とすることにした。

 

 この実戦が、3月9日~10日の「東京大空襲」であった。M69焼夷弾2300発が投下され、ニューヨークのマンハッタン島の広さにも匹敵する東京の下町15マイル四方(約39km2が焼け野原となった。その後、米軍は名古屋、大阪、神戸と主要都市の絨毯爆撃を敢行した。19452月の本土空襲回数は78回、3月は91回、4月は101回、5月は123回と日々激しさを増していった。さらに、日本全土の周囲に敷設された機雷は4ケ月間でB-29が1500機投入され、計12,953個投下となっている。

 

 一方、日本側でもマリアナ諸島陥落後B-29の爆撃行を予知し、迎撃用戦闘機飛燕、鍾馗、疾風、雷電、紫電改、月光、屠龍などの配備を進めたが、これらの戦闘機は高度1万m以上上昇可能であったがエンジン出力が低いため、上昇に6~10分近い時間がかかり、かつ高高度で運動性が極端に劣化していた。さらに、高射砲の能力でも有効射程が1万mを超える種類は1215センチ高射砲のみで、15センチ砲は1945年(昭和208月に2門が東京久我山砲台に設置されたにすぎない。

 

 日本側の防空システムは、マリアナを離陸したB-29爆撃団を八丈島に設置の防空監視網で把握、東京竹橋の東部軍総司令部に伝達され、同指揮下の高射砲集団300門と第10飛行師団が迎撃に離陸する流れであった。夜間になると、照空隊が聴音機で飛行機の音を捉え、照明機で機影を照らす方法で迎撃体制をとった。柏に残っている「照明機設置建物(旧陸軍高射砲第二連隊照空予習室)」には、照明機や聴音機などを巻きあげたクレーン跡もよく残っている。

 

 

旧陸軍高射砲第二連隊 照空予習室屋上のクレーン施設(内部の見学は特別な場合のみ)

 九十九里浜にはB-29の空襲が始まった1944年(昭和1911月ごろから銚子に「電探基地」を置き、木更津と茂原には迎撃用航空基地も配備していた。これらの基地では、実際B-29に体当たり攻撃をかけ撃墜した例の目撃談も残っている。

 

 さらに、同じ時期日本から偏西風に乗せて「風船爆弾」が9,300個も千葉県九十九里一宮、茨城県大津、福島県勿来から放球され、その1つは実際人的被害を与えている。

 

 本土決戦計画が策定されていく中で、九十九里浜各地に防衛陣地が多数構築され、その中で航空機を空襲から守るための「掩体壕」も多く建設されていった。現在、千葉県旭市、茂原市にはこの「掩体壕」がいくつか残存している。

 

 コンクリートで天井部を固め、外側上部は草木などでカムフラージュしたもので、規模の大きなものは大型戦闘機も格納出来たようである。戦後、多くは破壊されたが、堅牢な構造物のため現在でも倉庫、車庫、温室などに活用されている。茂原市は「市指定文化財」として保存し案内標識も設置しているため、日常的に見学は可能である。

 

聴音機設置訓練「絵葉書」より

 

 

参考文献・半藤一利・湯川豊『原爆の落ちた日(決定版)』PHP2015

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山岸良二やまぎしりょうじ

1951年東京生。慶應義塾大学大学院修了。専門は日本考古学。東邦大学付属中高校で44年間教鞭。退職後昭和女子大学、放送大学で教壇に立つ。日本最大の考古学会である日本考古学協会理事歴任。「世界一受けたい授業」日本テレビ、「ダークサイドミステリー」NHK、2021年BSフジ「日本史の新常識」、2022年フジ「何だコレ!ミステリー」などテレビ出演多数、。毎日新聞千葉版で「習志野原今昔物語」全11回連載。著書に『考古学のわかる本』『関東の方形周溝墓』(同成社)、『古代史の謎はどこまで解けたのか』(PHP新書)、『いっきに学び直す日本史』(東洋経済)、『秋山好古と習志野騎兵旅団』(雄山閣)など多数。2025文化財保護貢献で「旭日単光章」叙勲。

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