徳川将軍家を外戚とした「女帝・明正天皇」とは? 朝廷と幕府の関係が最悪という危機的状況で即位
■859年ぶりの女帝は朝廷と幕府の対立に翻弄され…
寛永6年(1629)、日本に女帝が立った。奈良時代の称徳天皇以来、じつに859年ぶりとなる女性天皇の誕生である。しかもわずか7歳という幼さであった。
後に興子内親王という名を与えられる少女が誕生したのは、元和9年(1624)11月のことだった。父は後水尾天皇、母は徳川和子である。この徳川和子の両親こそ、2代将軍・秀忠と織田家・浅井家の血を受け継ぐお江だった。つまり興子内親王は、徳川家康の曾孫、3代将軍・家光の姪、そして5代将軍・綱吉の母方の従姉にあたる、いわば「徳川の姫」だったのである。
寛永6年(1629)、7歳で内親王宣下を受けて「興子」という名を与えられたかと思うと、それから間もなく父・後水尾天皇が急に譲位して践祚することになった。この突然の譲位の理由は、明らかになっていない。一説には、朝廷に圧力をかけ統制しようとする江戸幕府との対立によって起きた「紫衣事件」がそのきっかけとされている。ゆえに天皇や朝廷を支配しようとする幕府への、一種の当てつけだったとも言われている。
ちなみに後水尾天皇には高仁親王という皇子がいたが、わずか3歳でこの世を去っていた。とはいえまだこの後皇子が誕生する可能性もあったために、「一時的に皇位を女一宮(明正天皇)に預けることとし、皇子誕生の暁には譲位すべき」という理論で成立したようだ。
しかし、「徳川を外戚とする天皇」は、幕府と朝廷の極めて不安定な関係性を揺るがす存在でもあった。実際、即位以降も父・後水尾上皇による院政が敷かれ、実権は持たなかったとされている。
寛永19年(1642)、藤原光子が産んだ素鵞宮を和子(東福門院)の養子に迎えて立太子させる運びとなった。そして翌寛永20年(1643)、21歳になっていた明正天皇は、11歳の異母弟・素鵞宮(紹仁親王)に譲位し、紹仁親王は後光明天皇として即位、明正天皇自身は太上天皇となったのである。在位14年であった。
その後、明正天皇は徹底して朝廷という場からも人々からも遠ざけられた。誰に会うにしても、どこに行くにしても、事前の許しや同行者がなければ許されなかったという。「女帝は生涯未婚」という慣例を守って結婚もしなかったため、生涯を1人で過ごした。両親や兄弟姉妹とは交流もあり、趣味に時間を割いていたというが、退位後の53年をどのように過ごしたのかははっきりとしない。ただ、孤独に苛まれたことは想像に難くないだろう。
明正天皇は後に出家して太上法皇となり、元禄9年(1696)に74歳で崩御した。

明正天皇/国立国会図書館蔵