日米交渉の決裂!太平洋戦争開戦を決定づけた「ハル・ノート」への日本の決断‼─日本の開戦までの8つの過ち【その8】─
太平洋戦争のすべて〜戦後80年目の真実〜#09
■日米交渉は決裂!ハル・ノートを拒否
日独伊三国同盟の締結で、日米戦争の可能性が高まった。危機感を覚えた第2次近衛文麿内閣は、1941年4月から野村吉三郎駐米大使を責任者として、戦争を避けるための日米交渉を開始した。同年7月、近衛はいったん総辞職し、第3次内閣を発足させたが、これは対米強硬派の松岡洋右外相を除くためだった。けれど同月、日本軍が南部仏印進駐を断行。するとアメリカは石油の対日禁輸を実施、イギリス、オランダ、中国を誘って日本への経済封鎖(ABCD包囲陣)をおこなった。
石油が尽きたら日本は戦えなくなる。まさに死活問題ゆえ、近衛は対米交渉に努めたが、御前会議で10月上旬に交渉が妥結しない場合、開戦することが決定してしまう。
期限が来たので近衛は総辞職し、主戦派の東条英機が、日米交渉継続を条件に組閣した。ところが同年11月下旬、国務長官ハルが、仏印・中国からの全面撤退、三国同盟の死文化、蒋介石の国民政府以外の否認を求めた交渉文書(ハル・ノート)を提示してきたのだ。到底日本が受け入れられない内容で、アメリカの最後通牒といえた。こうして日米交渉は決裂し、12月1日の御前会議で対米英開戦が決定、7日後、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃で太平洋戦争が幕を開けたのである。

東条英機
日米交渉に尽力した東条内閣だったが、交渉は決裂してしまった/国立国会図書館蔵
監修・文/河合 敦
歴史人2025年9月号『太平洋戦争のすべて〜戦後80年目の真実〜』より
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