敵中を“鬼神のごとく”突き進んだ、日本が誇る世界最強の空挺特殊部隊「義烈空挺隊」とは⁉
太平洋戦争後80年の記憶
1945年5月24日2230時頃、日本陸軍の97式重爆撃機5機が、沖縄・読谷飛行場への強行着陸を企てたが、4機はアメリカ軍の対空砲火によって撃墜された。だが残った1機が滑走路への胴体着陸に成功。まだ機体が停止しきらないうちに、10名前後の日本兵が機内から飛び出した。
日本兵は、少人数のアメリカ海兵隊基地警備隊やその他のアメリカ兵の防戦をものともせず、駐機中の航空機や備蓄燃料などを手当たり次第に爆破。この攻撃で、アメリカ軍は戦死約10名と戦傷約30名(どちらも異説あり)の人的損害に加えて航空機約40機(異説あり)が破壊されるか損傷を被り、航空燃料約7万ガロン(約265キロリットル)を焼き払われてしまった。
一方、撃墜された97式重爆撃機4機の機内からは、それぞれ14名ずつの戦死体が発見され、突入に成功した1機の機内からも、対空砲火により機上で戦死した3名の戦死体が確認された。加えて、基地内の随所で計10名の日本兵の戦死体が発見され、翌25日昼頃には、残波岬で単独行動中の日本兵1名が射殺されたが、この人物が殴り込みに成功した最後の1人だったとされる。
実は24日11時に97式重爆撃機機上から発信された「オクオクオク、ツイタツイタツイタ」の読谷飛行場上空に到着したことを知らせる無線通信以外は、日本側に生存者がいないため、いずれもアメリカ軍側の報告である。
ところで、この大胆不敵な空挺特攻作戦は「義号」という作戦名だった。実施したのは、義烈空挺隊という日本陸軍の精鋭特殊空挺部隊で、これを空輸した特殊任務飛行隊の第3独立飛行中隊も、きわめて高い飛行技量を誇った。
義烈空挺隊は、当初は一時、神兵皇(すめら)隊と命名されていた。同隊は元来、サイパン島に展開したボーイングB-29スーパーフォートレスの基地を奇襲して同機を焼き払う目的で編成された。しかし「とび」攻撃という秘匿名称で呼ばれていたサイパン島基地殴り込み作戦は、1945年1月22日に無期延期となってしまった。
にもかかわらず、しばらくの間は特攻隊向けの特別食が支給されていたので、隊員たちは出撃できない立場を自嘲し、自分たちを変更後の部隊名である義烈空挺隊にひっかけて「愚劣食放題(ぐれつくいほうだい)」と呼んだという。死を恐れぬ勇猛果敢な同隊員たちの、士気の高さが示されたエピソードである。
さて、5月24日夕刻、隊長奥山道郎大尉以下の義烈空挺隊員と第3独立飛行中隊の搭乗員の総勢168名は、別れの盃を交わし、歓呼の声に送られつつ、第独立飛行中隊(中隊長諏訪部忠一大尉)の12機の97式重爆撃機に分乗。熊本県の健軍飛行場を離陸して、黄昏の陽の中を一路、沖縄へと向かった。
再び還らぬ覚悟の義烈空挺隊員は、各人が持てる限りの武器弾薬を携行した。両肩に弾帯を掛け、大量の手榴弾をポケット一杯に詰め込み、帯状爆薬や吸着爆薬を携行。100式機関短銃やテラ銃(2分割可能な落下傘部隊用小銃)に、94式拳銃を所持する姿が写真に残されている。
出撃した12機のうち、4機は故障などにより引き返した。この4機のうち、1機の搭乗員1名が事故死している。だが、残り8機に搭乗していた者は全員戦死し、彼らには2階級特進の栄誉が与えられた。

1945年5月24日、出撃前の閲兵を受ける義烈空挺隊。先頭中央に立つ眼鏡姿の隊長奥山道郎大尉の後ろには、重装備を帯びた隊員たちが整列する。なお、彼らの軍服には手作業で緑色の迷彩塗装が施されていた。
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