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出雲王国と物部王国、九州王国の三つ巴の戦いがあったのか? 天孫族が国譲りを強要した?

日本史あやしい話


出雲神話に描かれたのは、大国主神が築きあげた出雲王国で、人々が幸せに暮らす姿であった。その国譲りを強要したのが天孫族だったというが、それはいったい、どのような史実を反映したものだったのだろうか? おぼろげながら見えてきたのが、出雲王国と物部王国、九州王国の三つ巴の戦いであった。そこに、ヤマト王権と邪馬台国までもが見え隠れする。いったい、どのような関係だったのだろうか?


 

■358本もの銅剣が出土した荒神谷遺跡

 

 今から40年も前のこと、出雲の斐伊川流域にほど近い神庭西谷で、358本もの銅剣が発掘されたとの衝撃的なニュースが流れたことを覚えておられるだろうか。荒神谷遺跡のことである。

 

 昭和591984)年から2年間の発掘調査の末、仏経山(神名火山)をすぐ南に仰ぐ土手の斜面から、銅剣358本をはじめ、銅鐸6個、銅矛16本が一度に出土したとのニュースが流れて、古代史や考古学に携わる誰をも驚かせたものであった。

 

 それまで全国から出土していた銅剣の総数が300本にすぎなかったにもかかわらず、同一地点からそれを上回る銅剣が出土したわけだから、驚くのも当然であった。

 

 不思議なことに、それらはいずれも、刃を起こした状態で4列に整然と並べられていたばかりか、そのうちの344本に謎の「×」印が刻み込まれていたことも謎めいていた。それが意味することは何か、またなぜなぜ埋められてしまったのか、侃侃諤諤の説が飛び交ったものの、今もって明快な答えは得られていない。侵略者がやってきたためあわてて隠した、あるいは、不要となったため廃棄された等々、憶測がまた別の謎を呼んで、話が尽きることがなかったのだ。

 

 さらに、それから12年後の平成8(1996)年、今度はその南東約3㎞余りの大原郡加茂町でも39個もの銅鐸が出土して、またもや世間を驚かせた。それが、加茂岩倉遺跡である。いずれも、朝鮮半島や中国の銅を原材料として生産されたものとも見られることろから、出雲地方が大陸と密につながっていたことが確認されたのである。

 

 それまで、神話として出雲の地が度々取り上げられることはあっても、考古学的な裏付けがなされていなかったこともあって、それらは単なる作り話と思われることも多かった。それが一転、出雲の地に巨大な勢力がいたことが実証された訳だから、驚いて当然というべきだろうか。

 

 さらに平成122000)年、出雲大社の境内遺跡から、3本を1組とする直系約3mもの巨大な宇豆柱が発見された。大国主神が国譲りと引き換えに壮大な神殿(現在は八丈(24m)、平安時代は16丈(48m)、上古の時代は32丈(96m)もあったといわれていた)を築いてもらったとの神話も、史実だった可能性が出てきたのである。

 

■天孫族が、大国主神が築いた出雲王国に侵攻

 

 ともあれ、ここからは、その話の元となった出雲神話がどのようなものだったのか、あらためて振り返ってみることにしたい。大国主神(大己貴神)と少彦名命による「国造り」と、武甕槌神が実行部隊として強要した「国譲り」のことである。

 

 まず、素戔嗚尊亡き後、大国主神は、神産巣日神の子・少彦名命とともに国造りに励んだという。人民と家畜のために病気治療の方法を教え、鳥獣や昆虫の害を防ぐ手立てまで定めた。おかげで、多くの百姓がその恩恵を受けたとも。その後、少彦名命が常世の国へと去ったが、大国主神は自身の幸魂・奇魂の支援を受けて、ついに葦原中国における唯一の統治者として君臨。それが『記紀』にもしっかりと記されているのである。これは見過ごすべきではないだろう。神武天皇から始まるとされるヤマト王権、それ以前に、葦原中国、つまり地上世界の全てを支配した王権があったことを『記紀』自ら認めていることになるからだ。

 

 その話の後半、つまり「国譲り」から、いよいよ天孫族が登場してくる。地上世界の繁栄ぶりを天上から見下ろしていた高皇産霊尊(『日本書紀』による)が、我が子孫を葦原中国の君主にしたいと思いはじめたというのだ。

 

 侵略の実行部隊は、経津主神と武甕槌神の2柱であった。出雲の五十田狭の小汀(稲佐の浜のことか)へと降り立った武甕槌神が、十握の剣を逆さまに大地に突き立て、その先に膝を立てて座り、大己貴神に対して国譲りを強要したのである。

 

 奇妙なことに、大己貴神は抵抗するそぶりも見せず、かといって自身では結論を下さず、息子の事代主神に決断を委ねた。地上世界に君臨する大王が、突如目の前に現れた侵略者に対して、何ら抵抗もせず、息子と相談するからしばらく待ってくれとばかりに懇願するというのは、本来ならありえない話である。ここでも『日本書紀』の編纂者は、何かを隠している。それでも、暗に何かを語りかけているような気がするものの、それが何なのかはわからない。何とももどかしいとしか言いようがないのだ。

荒神谷遺跡から出土した358本もの銅剣のレプリカ。4列に整然と並べられたその様相から、祭祀に用いられていたことが推測されそうである/撮影:藤井勝彦

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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