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「腹を裂かないでくれ!」妊婦が叫ぶも… 7名を惨殺したヒグマの「恐ろしい正体」とは

世間を騒がせた事件・事故の歴史


約110年前、北海道の開拓地で起きた「三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件」は、史上最悪の獣害事件として語り継がれている。食殺された家族の通夜にも同じクマが訪れ、避難先でも妊婦や子供たちが襲われるなど、執拗な襲撃により最終的に7名が死亡する惨劇となった。きのう4月9日にも、長野県飯山市で物置や住宅の中にいた男女3名が入ってきたクマに襲われケガをおう事件が起きたが、人里への出没が増えている今、改めて事件の記録を振り返り、クマ被害の現実に目を向けたい。
前編では、第一の事件(成人女性と6歳の子どもの食殺)、第二の事件(通夜への襲撃)を取り上げた。後半では、5人が命を落とした第三の事件と、討伐の経緯を見ていく。
<前編:【家のすぐそばで、家族の遺体が埋められていた… 死者7名、「史上最悪のヒグマ事件」のむごすぎる経緯】から続く>


 

*文中敬称略

 

■臨月の妻と子どもを避難させたことが、裏目に

 

 2人の命が失われた時点で、集落の住人たちはヒグマの襲撃を警察や役場に知らせ、救助と保護を求める必要があった。

 

 しかし、当時は無線も電話もなく、連絡手段はただ一つ……徒歩で雪道を進むことだけだった。30km離れた苫前村役場や、19km先の駐在所までの道のりは、新雪の積もる山道であり、片道でまる一日を要する困難な旅だった。誰かがやらなければならない。

 

 斉藤石五郎(42歳)は、ある条件を前提にこの役割を引き受けた。条件とは、「出産間近の妻・斉藤タケ(34歳)と、三男・巌(6歳)、四男・春義(3歳)を安全な場所で保護してほしい」というものだった。当然の願いと言えるだろう。

 

 タケたちは、太田宅から500mほど下流にある明景家で過ごすことになった。そこには、明景安太郎(40歳)、明景ヤヨ(34歳)夫妻と5人の子どもたちがいた。さらに、太田宅の寄宿人として働いていた長松要吉(59歳)も泊まることになった。

 

 総勢11人、タケの胎児を含めれば12人が、明景家で夜を過ごした。石五郎の妻と子どもたちの保護先として明景家が選ばれたのは、比較的安全だと考えられていたからだろう。しかし、それはとんだ見込み違いだったことがすぐにわかる。

 

第三の事件:明景家への襲撃

 

 太田家での通夜襲撃から30分も経たないうちに、窓を突き破る激しい音とともに、黒く大きな影が侵入してきた。一同、大混乱となり、ランプの灯りが消えた。真っ暗な室内でヒグマは人間を次々に襲い、捕食していった。

 

 明景ヤヨと、背負われていた四男の明景梅吉(1歳)は噛まれて負傷したが、ヒグマが逃げる長松要吉に気を取られたため、難を逃れて屋外へ脱出できた。しかし、追われた要吉は牙を腰に受け、重傷を負った。

 

 居間にいた明景家の三男・金蔵(3歳)と斉藤春義(3歳)はその場で殺害され、斉藤巌(6歳)も噛まれて甚大なダメージを受けた。野菜置き場に身を潜めていた斉藤タケは、ヒグマに見つかり、居間へ引きずり出される。

 

「腹を裂かないでくれ!」

 

 出産間近のタケは、このように胎児の命乞いをしたとも伝えられているが、やがて意識を失い、上半身から食いちぎられて殺害された。悲鳴と物音を聞きつけた集落の住人たちが明景家へ駆けつけ、重傷を負ったヤヨと遭遇。

 

 このとき「家ごと焼き払おう」「一斉射撃をしよう」といった声もあがった。しかし、ヤヨが「まだ生存者がいるかもしれない」と指摘し、それらの案は見送られた。救出作戦は難航した。この夜の襲撃で、胎児を含む次の5人が命を落とした。

 

 約40人の集落の住人は、三毛別にある三毛別分教場(後の三渓小学校)へ避難。重傷者は、3km下流の家に収容され、応急処置を受けた。そのとき、家族を惨殺されたことを知らない斉藤石五郎は、ただ必死に山道を歩き続けていた。

 

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ミゾロギ・ダイスケ 

昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。スポーツ誌編集者を経て独立。出版物、Web媒体の企画、編集、原稿執筆を行う。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。

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