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「腹を裂かないでくれ!」妊婦が叫ぶも… 7名を惨殺したヒグマの「恐ろしい正体」とは

世間を騒がせた事件・事故の歴史

 

■「遺体をエサにおびき寄せる」奇策も行われたが…

 

 12月12日、斉藤石五郎の通報を受けた当時の北海道庁警察部は、羽幌分署に討伐隊の編成を指示。三毛別にやってきた討伐隊は、すぐにヒグマを発見することができなかった。そこで、ある奇策が実行されることになる。

 

 それは、「ヒグマの一度得た獲物を取り戻そうとする習性を利用する」というものだった。この習性を逆手に取り、犠牲者の遺体を置くことでヒグマをおびき寄せるという、現在の倫理観では考えられない作戦が立案されたのだ。

 

 しかし、ヒグマは近くまで来たものの、警戒してか深くは入り込まず森へと引き返してしまった。その後、ヒグマは再び太田宅への侵入を試みるが、結局この時点では駆除の実行はできなかった。

 

■陸軍の一斉射撃を試みるも、射殺できず

 

 12月13日、事態の深刻さを受けて、旭川より陸軍歩兵第28連隊の将兵30人が派遣されたとする記録もある(派遣の有無には諸説あり)。

 

 当時の交通事情では、現地到着までに数日を要した。その間、無人となった六線沢の複数の家屋が、ヒグマに侵入される被害を受けている。同日夜に、ヒグマが再び目撃され、集落の住人たちは協力して射撃を試みたが、射殺には至らなかった。

 

 翌朝、ヒグマの足跡と血痕が発見され、討伐隊はヒグマが負傷して動きが鈍っていると判断。隊長の指示のもと、山へと踏み入った。

 

■天候が急変し、「クマ嵐」に

 

 一方、山本兵吉(57歳)という猟師が単独で山に入っていた。兵吉は前日にもヒグマを目撃し、銃撃していたのだ。そして、討伐隊よりも先にヒグマを発見すると、慎重に近づき樹木に身を隠しながら銃を構えた。

 

 距離はおよそ20m。1発目を背後から放ったが、ヒグマは怯むことがなかった。続いて2発目。頭部を狙って発砲すると、それが命中し、ヒグマは絶命した。

 

 集落の住人たちは、ヒグマの死骸をソリに乗せて集落へと運んだ。ところが、その道中で奇妙な出来事が起きた。突然、空が曇り、激しい吹雪が襲いかかったのだ。

 

 事件発生からの3日間は比較的穏やかな天候が続いていたにもかかわらず、このときだけ、突如として天候が急変したのだった。この異変は「クマ風」(またはクマ嵐)と呼ばれ、語り継がれた。

 

■三毛別事件の前にも、さらに3名を殺害していた

 

 ヒグマの死骸は、三毛別の分教場で解剖された。胃の中からは、人肉や衣服の切れ端が発見された。さらにそこで明らかになったことがある。

 

 実は事件の数日前、近隣の雨竜村、旭川周辺、天塩町で3人の女性が相次いでヒグマに襲われたという証言が残っている。当該のヒグマの胃の中からは、それらの被害者たちが身につけていたとされる衣類の切れ端が見つかった。この3人を含めると、一体のヒグマが最大で10名の命を奪った可能性があるということになる。

 

 人間の営みが自然へと踏み込み、人と野生の距離がさらに縮まっている今、この百年以上前の出来事は、私たちの日常と決して無関係ではない。

 

三毛別羆事件 復元現地 再現

 

 

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ミゾロギ・ダイスケ 

昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。スポーツ誌編集者を経て独立。出版物、Web媒体の企画、編集、原稿執筆を行う。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。

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