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北条氏康・武田信玄・上杉謙信の3人のレジェンド武将を「父親」として育った武将【上杉景虎】とは⁉

知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第25回】

 

上杉謙信、武田信玄、北条氏康(東京都立中央図書館蔵)

 

 2代目の上杉景虎(うえすぎかげとら)は、北条氏康(ほうじょううじやす)の7男として天文23年(1554)に生まれた。諸説あるが、1説には「氏秀」とも呼ばれる。

 

 同じ天文23年の甲斐・武田、駿河・今川、相模・北条の三国同盟の締結は、それぞれに嫡男と息女同士の政略結婚という形で結ばれた。その後に、三国同盟補強の一環として氏秀(のちの上杉景虎)は武田家に養子として出され、早世した武田信玄(たけだしんげん)の3男・信之の代わりとして「三郎」を称したという(この養子説も資料的には根拠が乏しいとされる)。

 

 三郎氏秀(のちの上杉景虎)は、非常に眉目秀麗で若い女性たちからは、付け文(ラブレター)が多数寄せられたという話もある。甲州にはこんな里謡も残されている。「(武田)三郎殿と一夜契りては梨子地の鞍召すと泣いて御座あるべいし(三郎様と一夜でも共に出来るなら、梨子地の立派な鞍を差し上げてもいいほどの喜びだ)」。その後、今川義元(いまがわよしもと)が桶狭間合戦で織田信長に討ち取られてから、信玄は駿河侵攻に意欲を見せ、結果として三国同盟は破棄に繋がる。氏康は激怒して、嫡男・氏政(うじまさ)と信玄の添い駆除との結婚を破談とした。信玄は、養子としていた三郎氏秀を、殺すことなく無事小田原に帰した。しかし、氏秀はその後も「三郎」を称し続けた。

 

 甲斐・武田と関係を絶った氏康は、対抗策としてそれまで敵であった越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と結んだ。その証として三郎を今度は越後・上杉家に送った。体のよい人質だが、謙信は一目見て三郎を気に入り、自分の幼名・景虎という大事な名前を送った。三郎氏秀は「上杉景虎」になった。実子のない謙信は、景虎を将来の上杉家の継承者に、と考えるほどであった。

 

 しかし、謙信はもう1人の養子を取った。それが姉・仙桃院の子・喜平次(のちに上杉家を継承する上杉景勝)である。謙信は、景虎と景勝の上杉家内における棲み分けを考えていたが、実際には景勝には父・政景の領地である越後・坂戸城を与え、上田長尾家の当主として、御屋形・景虎をさせる存在(片腕となる重臣)とするつもりであったという。

 

 しかし、天正6年(1578)3月、そうした措置を講じる前に謙信は脳卒中によって急逝した。49歳の最期だった。この瞬間から、景虎・景勝を支持する家臣団などによって上杉家の内訌が開始された。景勝には、上田長尾氏の系列や重臣・本庄繁長などが味方し、古志長尾家の上杉景信や北条高広などの有力武将や前関東管領の上杉憲政なども景虎を支持した。これが「御館の乱」であった。「御館」とは景虎の館を指す。この内訌には北条氏と同盟を再び結んでいた甲斐・武田勝頼や景虎の兄・氏政なども加わった。特に勝頼は、関東地方を纏めるために動きの取れない氏政の代理的な意味もあって、キーマンになっていた。この勝頼にいち早く和睦を申し入れ、様々な条件で勝頼を誘引した景勝は、勝頼の斡旋で景虎と和議を成立させたが、結果として景虎を裏切った。景勝は、勝頼の妹・菊姫を娶ることで武田家と同盟を結んだ。

 

 天正7年2月24日、衆寡敵せず、という状況で景虎は妻子諸共に自刃して果てた。享年26。そして、越後はこれから1年余りに渡って内乱状態が続き、武田・北条は再び同盟が破棄された。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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