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一生に1度しか笑わなかった、関ヶ原合戦のきっかけをつくった男【上杉景勝】

知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第22回】

 

上杉景勝(東京都立中央図書館蔵)

 

 通称を喜平次と呼ばれた上杉景勝は気難しい性分で、幼い頃から無口であり、いつもこめかみに青い筋を立てていたという。生涯、笑ったことがない、と追われるほどの難しい性格の人物であった。生まれたのは弘治2年(1556)で、父は長尾政景(ながおまさかげ)。母が謙信(長尾景虎・後に輝虎)の姉・仙桃院であって、謙信の甥に当たる。10歳の時に謙信の側に侍り、21歳で謙信の養嗣子になった。しかし、父・政景は景勝の少年時代に謙信によって殺されている。無口で無愛想になったのは、この時からかも知れない。

 

 謙信は生涯、女性と縁を持たないし、結婚もしなかったといわれる。しかし、上杉家の後継者は必要であった。そこで、実の甥である喜平次を養子にしたが、実はもっと早く1人の養子を入れている。それが北条氏康(ほうじょううじやす)の7男(氏政の弟)・三郎氏秀(うじひで/名前意には諸説あり)であった。これは、謙信と北条氏康が永禄12年(1569)6月に越相・軍事同盟が結ばれると、その証として氏康は、7男・氏秀を謙信に差し出した。すると謙信は、単なる人質ではなく大事に預かるとして、氏秀を「養子」とし、しかも自分の幼名である「景虎」という名前まで与えた。景虎となった氏秀は17歳であった。景勝が養子になったのは、その7年後のことである。

 

 景虎(氏秀)は眉目秀麗。謙信好みのの若武者であり、景勝は幼少の頃から戦さに興味を示し、軍事に優れた才能の持ち主であった。

 

そして2人の養子は、どちらが上杉家を継承するかは知らされていなかった。そうした状況の中で、謙信が天正6年(1578)3月、春日山城で急逝する。遺された養子2人は、本葬もすまないうちに跡目争いに巻き込まれていく。景虎を支援する者、景勝を推薦する者。2人を巡って内訌が起きる。「御館の乱」である。家臣団も2派に分かれて争った。

 

 これに北条家も武田家も巻き込まれていく。結果として、武田勝頼はお上げ勝つに与して「御館の乱」は景勝の勝利となった。

 

 上杉家の継承者となった景勝は、本能寺の変などを経て、豊臣秀吉に従い、秀吉政権では5大老の一角を占めるほどの立場になっていった。「御館の乱」から「会津120万石」の大大名に至るまでには、幼い頃からの側近であり、文武両道の家老・直江兼続の存在などがあった。しかし、秀吉の死去から再び景勝の足元は揺れ始めた大老筆頭として豊臣家の家宰となった徳川家康は、策を弄して「親豊臣系」の大名を弾圧しようとした。加賀・前田家も会津・上杉家もその対象であった。家康は、景勝に上洛を促したが景勝はその誘いに乗らず、戦力の増強を図った。これが慶長5年(1600)9月「関ヶ原合戦」の導火線になった。

 

 結果として、石田三成の西軍に属した景勝は、この戦さに敗北。様々な取り成しなどの末に、上杉家と景勝の命は助かったが、会津120万石から山縣の米沢30万石に減封された。以後、徳川家の1大名として景勝と上杉家は残る。景勝は、生涯笑うことのない大名といわれた。ただ1度だけ、人前で笑ったのは、飼っていた猿が景勝の頭巾を被って景勝の座にすわって家臣に対する真似をした。その時に、景勝は思わず吹き出してしまった。それが生涯1度の笑いであったという。元和9年(1623)年4月、67歳で死去。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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