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主君へ下剋上!しかし「厳島版キツツキ作戦」で毛利元就に敗れた武断派【陶晴賢】

知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第18回】

 

厳島神社

 

 山口を中心に中国地方の西から北九州にかけて7ヶ国の守護であった大内氏は、明や朝鮮との貿易を一手に握り、豊かな経済力を持っていた。京都の朝廷にも、室町幕府にも大きな影響を与える存在でもあった。その最盛期を作り上げた大内義興の家臣であった陶興房を父として大永元年(1521)、陶晴賢(すえはるかた/隆房)は誕生。父の病死によって20歳で家督を継いだ晴賢は、この年のうちに初陣を果たした。眉目秀麗な美男子であったし、戦さにも強いことから、大内義隆(おおうちよしたか)の代になると、重臣の1人になっていた。

 

 大内・尼子など戦国大名が覇を競う中国地方で、弱小豪族の1人であった毛利元就(もうりもとなり)の居城・安芸郡山城が尼子勢に攻められた時に、援軍要請があった。大内家内では「たかが毛利のために無理はしない」など慎重論がある中で、晴賢のみが「大内家に服属した毛利を救わなければ名分が立たない」と主張し、自ら先陣を切って尼子勢を破り、元就の窮地を救った。晴賢は、正統派の武人であった。主君・義隆との間も良好で、内政・外交・軍事のすべてを仕切るほどの実力者になった。

 

 しかし、後から大内家に入った文治派・相良武任(さがらたけとう)が台頭し、家内での争いが始まる。晴賢は、ほかの重臣らと結んで結果として相良らを追い出すが、主君・義隆との仲はこじれたままであった。溝が埋まらないまま、晴賢は義隆への下剋上を実行した。天文20年(1551)8月、挙兵した義隆は義隆を長門まで追い遣った。義隆は自刃して果てた。

 

 晴賢は、そのまま主家の乗っ取りをやらず、隣国の豊後・大友宗麟(おおともそうりん)の弟・晴英を迎えて大内家を継承させた。自らは執政の形で君臨した。この内訌を見て、毛利元就が密かな動きを開始した。それを知っても晴賢は「自分は2万以上の大軍を動かす身であり、毛利などはたかだか安芸・高田の3千貫の地頭上がり」と格下に見ていた。事実、この時点での毛利氏の兵力は4千。晴賢とは5倍以上の差があった。晴賢の、この脇の甘さが致命傷になる。牙を剥いた元就は、様々な謀略を仕掛けてから反旗を翻した。

 

 天文23年(1554)5月、元就は大内氏の支城4つを落とし、決戦を挑んだ。9月になっての決戦場所は大内氏にも縁の深い厳島を選んだ。厳島は宮島ともいい、廣島湾の南西に浮かぶ美しい島であり、安芸一之宮である厳島神社がある。標高530㍍の弥山が聳え、本土との間には約1里(約4㌔)の大野瀬戸が横たわる。元就は、神社に隣接する宮尾城の守備を強化した。

 

 晴賢は9月21日、2万の大軍を率いて厳島に上陸し、塔ノ岡に陣を敷いた。28日、元就は4千5百で厳島の対岸に到着。3男・小早川隆景あ説得して味方に引き入れた村上水軍を待った。そのうえで軍勢を2分して別働隊3千を厳島北岸に上陸させ、山道を博奕尾に上り上げ、背後から一気に晴賢の本陣・塔ノ岡に奇襲攻撃を掛けた。堪らず逃げ出した場所に第2軍1千5百が待ち受けて殲滅する。あたかも、後年の武田信玄による川中島合戦での「キツツキ作戦」の先例ともいえる作戦であった。散々に打ち破られた晴賢は、東岸の青海苔浦にまで逃げて、そこで自刃した。晴賢34歳であった。

 

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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