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戦国時代を一変させる新兵器・鉄砲を全国に普及させた南国の武将【種子島時尭】

知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第16回】

 

イメージ/写真AC

 種子島時尭(ときたか)という名前は、戦国好きな歴史ファンにもほとんど知られていない、もしくは名前のみ知っていても人物像は伝わっていない戦国武将であろう。その名字の通り、時尭は種子島という島の13代領主であった。だが、時尭は日本が戦国時代を経て、近代化に向かって進み始める時に、重要な役割を果たした人物であった。

 

 時尭は、13代領主・種子島恵時(さととき)を父として、薩摩・島津忠興の娘を母として享禄元年(1528)に生まれた。余談ながら、後に生まれる時尭の娘は、「鬼島津」と呼ばれた薩摩の猛将・島津義弘の正室になっている。

 

 天文12年(1543)8月25日、この種子島の南端にある門倉岬西ノ村の海岸に、1隻のジャンク(ボロ船)が漂着した。このジャンクが、日本の戦国時代を一変させ、さらに近代化を促進させるものを積んでいた。ジャンクは、明国人で五峯(ごほう)、本名を「王直」という倭寇の頭目の持ち船で、その配下である3人のポルトガル人も乗っていた。彼らは、商売のためにシャム(タイ)から中国大陸に向かったが、台風に遭って操船不能に陥り、風と潮の流れのままに漂着してやっと種子島に辿り着いたのだった。

 

 そのポルトガル人が持っていたものが鉄砲だった。『鉄炮記』(南浦文之著)によれば「その品物は、長さ1mほどで真っ直ぐな筒状をしていた。筒の一方は塞いであり、小さな穴が横にあって、これが火の通る道である。見たことのない珍しい変わった形をしており、これに小さな鉛の玉を薬とともに用いる」とある。初めて「鉄炮(鉄砲)」を見た時の驚きが詳細に記されている。つまりこれは、大きな爆発音と共に火を噴いて標的を撃ち抜く鉄の棒であった。

 

 この時16歳だった時尭は、銀と真鍮(しんちゅう)の象眼が施された銃身(長さ692mm)と口径(17mm)、内厚(3mm)を持ち、火門も鉄製の鉄砲を見せられて、咄嗟に金2千両(約2億円。銀2千両なら約4千万円)という大金を投じて、鉄砲の買い入れを決めた。その上で、島の刀鍛冶・八坂金兵衛に鉄砲(の複製品)作りを命じ、家臣・篠川小四郎に火薬の調合研究を命じた。この咄嗟の判断と決定、コピー作りまで命じたことが、戦国時代を変えた。

 

 鉄砲そのものは、東シナ海などで海賊行為を行っていた倭寇などから密かに伝わっていたが、公に鉄砲が伝来したのはこの時が初めてとされ、歴史上では天正12年8月が「鉄砲伝来」の年となった。八坂・篠川は紆余曲折の末に、複製品作成と火薬の調合に成功する。しかも時尭はこの「成功」を秘密にせずに、後に種子島に鉄砲・火薬品を教わりに来た紀州・根来の僧や和泉・堺の商人にも技術を伝えたことから、鉄砲は日本全国に伝わり、瞬く間に広がった。

 

 武田信玄は弘治元年(1555)の第2回川中島合戦に鉄砲を使い、上杉謙信を驚かせたし、織田信長が長篠合戦で多数の鉄砲を使って武田軍団を破ったのは、時尭の功績に繋がろう。

 

 時尭は、戦国時代の終わりを見ることなく、こうした功績を抱えたまま、天正7年(157910月2日、52歳で病没した。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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