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対武田軍に専心した徳川家康の嫡男【松平信康】は後継者ながら徳川家の犠牲者となってしまった

知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第24回】

 

松平信康が自刃した二俣城址

 

 岡崎三郎とも称される徳川家康の嫡男・信康(のぶやす)は、永禄2年(1559)家康(松平元康時代)の正室・築山殿(つきやまどの)を母として誕生した。父・家康が16歳の時の長男であった。家康の2男は、その15年後に生まれた結城秀康(ゆうきひでやす)であるから、家康にとっては誕生から元服・成長までを見てきたただ1人の「我が子」であった。その意味では、武田信玄が嫡男・義信(よしのぶ)を授かったのが17歳であったのとよく似ている。そして、信玄は義信を見殺しにし、家康は信康を切腹させた。2人の武将は、親として似たような経験をしているのである。

 

 家康は、桶狭間合戦で信長に今川義元が討たれた後、それまで人質同然であった家康が今川家から独立し、さらに信玄と謀って今川領に侵攻し、今川家を滅亡させた。徐々に力を発揮してきた家康は元亀10年(1570)、敵になった武田領と接する遠江・浜松城に居城を移した。それまでの居城だった岡崎城は、まだ11歳の信康に譲った。これを契機に、信康は「岡崎三郎信康」となった。しかも正室・築山殿も、嫡男・信康と一緒に岡崎城に残ったことから、家康と築山殿の間にもすきま風が吹き始めた。

 

 武将としての信康は、一貫して「対武田合戦」に専心した。信康の初陣は、岡崎城主になった3年後の天正元年(1573)、武田との戦いであった。家康は信玄との三方ヶ原合戦で手痛い敗北を喫したが、その直後に信玄が病死し、後継者に勝頼が座った後の戦いである。

 

 さらに信康は、天正3年(1575)の長篠合戦では一手の武将として参陣している。いくつかの合戦で常に父・家康と競い合う形で戦い、ある合戦では殿軍(しんがり)までも争ったほどであった。この殿軍では、追撃態勢に入った武田軍に付け入る隙を与えないもので、家康に「信康こそ真の優勝である。勝頼が10万の兵をもって対陣しても怖れることはない」(『大三河志』)と言わせた。

 

 信康にはこんなエピソードも残る。それは15歳年下の弟・於義丸(後の結城秀康)を父・家康に初対面させた時のことである。家康は、於義丸を疎ましく思っていたから自分の子としても認知しようとしなかった。異母兄弟の於義丸を不憫に思った信康は、家康が岡崎城に来て自分との対面をしている際に、於義丸を座敷の外に待機させておき、そこで「父上」と呼ばせた。家康が慌てて逃げ出そうとしたのを袖を押さえて家康を説得し、その膝に於義丸を座らせて、結局認知させたという。

 

 信康はいわゆる「築山事件(家康の正室・築山殿が武田家と結んで、徳川家を裏切ろうとして殺された事件)」に連座する形で自刃している。この事件は諸説あって結論はついてないが、信長の命令によって母子(築山殿・信康)共に殺された、とか徳川家の内部にあった家臣団の対立結果など様々に取り沙汰されている。いずれにしても、家康にとって本来であれば最も頼りになる存在の信康が、こういう形で命を失ったのは、その後の家康にとっても大きな損失であったはずである。

 

『三河物語』は信康の際に対して「上下万民、声を上げ、悲しまざるはなし」とか「これほどの殿はまた出来難し」とか書く。領民にとっても惜しまれる死であったようだ。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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