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名君だったのに… 四国のヒーロー・長宗我部元親の「悲惨すぎる晩年」 息子の死で人格が変わり、家臣を「切腹」させまくった

日本史あやしい話


長宗我部元親といえば、四国を統一したことでも知られる戦国大名である。自ら槍を手に敵陣へと突撃したという勇猛果敢な武将でもあったが、晩年は、必ずしも褒められたものではなかった。息子の死を契機として、性格が一変。諫言する者を死に追いやるような無慈悲な人間に成り果ててしまったのだ。


 

■晩年に「性格が豹変」した長宗我部元親

 

長宗我部元親像 

 長宗我部元親といえば、いうまでもなく、一領具足という兵を率いて各地の土豪を征し、ついには四国統一まで成し遂げたとして知られる御仁である。しかし、大軍を送り込んできた秀吉の四国征伐には抗し難く、結局は、土佐一国の主に収まったという経緯についてもよく知られるところだろう。

 

 ただし、その晩年は、あまり感心できるものではなかった。騒動の始まりは翌1586年、この年、秀吉の九州征伐に嫡男の信親と共に従軍しているが、その際、信親が討死。この息子の死を契機として、元親の人格が激変してしまったことから、さまざまな騒動が巻き起こったからである。

 

 それまでは勇猛でありながらも情け深く、「名君」とまで評されていたのが一変。人の意見に耳を傾けることもなく、気に食わぬ者は臣下といえども容易に死に追い込むという無慈悲な人間に成り果ててしまったのだ。この手の御仁にありがちなように、諫言する者を容赦せず自害に追い込んだというから情けない。

 

 中でも特筆すべきが、家督相続にまつわる騒動であった。元親には、亡くなった嫡男の他に次男、三男がいた。それにもかかわらず、彼らを嫌い、四男の盛親に家督を譲ることにこだわったことが、騒動の始まりであった。

 

 加えて、亡くなった信親の娘を叔父にあたる盛親に嫁がせようとまでした。これにはもちろん、家臣・吉良親実(元親の弟・親貞の息子)や比江山親興(元親の従兄弟)らが異を唱えたことは言うまでもない。

 

 ところが、この諫言に元親が耳を傾けることはなかった。そればかりか、親実と犬猿の仲であった側近の久武親直が彼を陥れようと讒言。これを真に受けた元親が、親実に切腹を命じてしまったのである。

 

 理不尽とはいえ主君の命とあっては抗し難く、法に則って、粛々と腹を切ろうとする親実。沐浴して体を清め、半膳の食事をした後、見事自害し遂げたというが、死の間際に発した一言が気になる。「佞臣によって忠義の道を断たれた」ことを恨むと共に、「主家は間も無く滅ぶであろう」と予言したのだ。

 

 その一言を最後に、腹を一文字に切り裂き、腹わたを引き出して死んだというから凄まじい。その後、予言通り、長宗我部氏は元親の子・盛親が関ヶ原の戦いにおいて西軍に与。大坂の陣の後、盛親が刑死したことで、大名としての長宗我部氏は滅亡している。

 

 親実の悲運は、それだけに止まらなかった。実はこの時死に追いやられたのは、親実だけではなかったからだ。兄である宗安寺真西堂をはじめ、永吉飛騨守宗明、勝賀野次郎兵衛実信、城ノ内太守坊、吉良彦太夫、小島甚四郎、日和田与三右衛門ら7名の親族や重臣まで誅殺されてしまったのだ。

 

■恨みを抱いて死んでいった7人の臣下たち

 

 この7人、もちろん、いずれも無念の死であったことは言うまでもない。彼らについては、こぞって亡霊となって世に出現したという「七人みさき」の怪談が残っている。

 

「七人みさき」とは、無念の死を遂げた七人の亡霊による怪談である。新たに無念の死を遂げた者の亡霊が加わると、最初の七人のうちの一人が成仏して抜け出すことができる。一人が加わって一人が抜け出る訳だから、亡霊の数は常に七人のまま。つまり、その存在が永遠に尽きることがないという、実に奇妙な物語である。

 

 親実が自害した蓮池城では、白馬に乗った首のない侍が駆け巡ったり、時には怪火が出現したこともあったという。もちろん、多くの人々を怯えさせたことはいうまでもない。おぞましいのは、それを目にしたものは命を落とすとまで言われたからたまらない。

 

 さらに、親実を死に追い込んだ久武親直の屋敷でも、次々と異変が起きた。何と、親直の八人の息子のうち七人までもが謎の死を遂げたと言われることもある。さらには、親直の母まで狂い死んだとか。これらの騒動が喧しくなるに及んで、さすがの元親も慌てたようで、親実らの供養を行っている。

 

 しかし、僧侶が読経する最中に、位牌が動き始めて何処ともなく消え失せてしまったとも。ならばと、親実の墓を改葬した上で、社殿(吉良神社。本殿脇には七所神社もある)まで建てて親実を祭神として祭り上げたところで、ようやく怪異な現象がおさまったというから、何ともしぶとい怨霊であった。

 

 ちなみに、親実と共に自害を命じられた比江山親興の妻子ら六人も死罪となっているが、親興を含めた七人の霊も「比江村七人みさき」と呼ばれて恐れられたようである。

 

 ともあれ、そんな騒動がうち続く1599年、元親は三男の津野親忠を幽閉するという暴挙に及んでいる。その後、元親の子・盛親によって殺害されたことが、長宗我部氏改易の一因となったようだ。

 

 元親自身は、親忠幽閉直後に病を得て、その2ヶ月後に病死。多くの臣下に恨まれた中での死であった。あの世に行った元親、はたしてどのように皆に迎え入れられたのか、気になるところである。

 

■援助交際の果てに堕ろされた胎児が、女子高生に復讐?

 

 なお、「七人みさき」については、西日本を中心として、各地にさまざまな物語が存在する。悪事を働いた山伏が成敗されて「七人みさき」になったというほか、水難にあって亡くなった女遍路や、落とし穴に落ちて死んだ平家の落人まで登場する。

 

 そればかりか、昨今では援助交際の果てに堕ろされた胎児の怨霊が「七人みさき」となって、母である女子高生に復讐するとのおぞましいお話まで流布するようになったようである。

 

 

 

 

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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