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娘からひ孫まで一族の栄華を見届けた藤原穆子

紫式部と藤原道長をめぐる人々㊷

■最高権力者・藤原道長も頭が上がらなかった

 

 藤原穆子(むつこ/あつこ/ぼくし)は中納言・藤原朝忠(あさただ)の娘として931(承平元)年に生まれた。母は分かっていない。朝忠は小倉百人一首に歌が選ばれるほどの歌人だった。

 

 穆子は右大臣で宇多天皇の孫にあたる源雅信(まさのぶ)と結婚し、源倫子(ともこ/りんし)や源時叙(ときのぶ)らを生んだ。倫子はのちに藤原道長と結婚。時叙は天台宗の僧侶となっている。

 

 娘の倫子が道長と結婚する際に、夫の雅信は猛反対している。雅信は天皇家の血筋である倫子を一条天皇に入内させるつもりだったようで、家格が下の藤原氏の三男に嫁がせるなど考えられない、といった風に反対したらしい。現に、雅信は道長からの求婚を「あなもの狂ほし」と相手にもしなかったという。

 

 道長の父で、時の権力者だった藤原兼家(かねいえ)も「位などまだいと浅き」と、倫子と道長との関係が釣り合わないことを憂慮していた。道長の栄華は後の世のことであり、当時は嫡男の藤原道隆(みちたか)が後継者として育っていたため、父の兼家にとっても道長の将来を見通すことができていなかったといえる。

 

 この結婚を後押ししたのが穆子だった。どうやら、穆子は道長を将来性のある青年と見込んでいたらしく、16歳も年下の一条天皇に嫁がせるより、2歳年下の道長の方が結婚相手としてよほど現実的と説得したらしい(『栄花物語』)。

 

 倫子が無事に道長と結婚すると、穆子と雅信は本邸としていた土御門(つちみかど)邸を出て、一条邸に移り住んだ。別居後も穆子は、倫子、道長を豊富な資金力で支え、二人のために装束を贈り続けるなど経済的な援助を惜しまなかったという。

 

 993(正暦4)年に夫の雅信が没すると、穆子は出家。一条尼と称された。

 

 その後、婿の道長は穆子の予見した通りに出世。摂関政治の頂点に立つまでの人物となった。倫子の生んだ子どもたちは、2人の男子は関白を務め、4人の女子は全員、天皇の后になっている。倫子がいなくては道長の栄達はなかったわけで、そのため道長は、倫子との結婚を強力に後押ししてくれた穆子に対して、終生頭が上がらなかったといわれている。

 

 また、穆子の生んだ娘の一人は藤原道綱(みちつな)と結婚しているが、出産時に死去してしまったため、残された孫を引き取って養育したという逸話がある。家族を大切にしていた女性だったことがうかがえる。

 

 1001(長保3)年、70歳を迎えた穆子を祝う修法が道長・倫子夫妻によって営まれた。当時としては驚くほどの長寿だが、その後も詳細な消息は不明ながらも穆子は娘や孫たちを見守り続けた。

 

 1016(長和元)年に病に倒れ、ほどなく息を引き取っている。倫子ら家族に看取られたというから、幸福な最期だったのではないだろうか。享年86。すでに穆子のひ孫にあたる後一条天皇が治める世となっていた。

 

 なお、娘の倫子は享年90、孫の藤原彰子の享年は87と、親子三代にわたって、当時としては稀に見る長寿を誇った。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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