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才能と美貌に恵まれながら急逝した藤原妍子

紫式部と藤原道長をめぐる人々㊴


10月13日(日)放送の『光る君へ』第39回「とだえぬ絆」では、藤式部(とうしきぶ/のちの紫式部/吉高由里子)の娘の出生の秘密を父・藤原為時(ふじわらのためとき/岸谷五朗)が知るところとなる。一方、藤原道長(みちなが/柄本佑)は、中宮・藤原彰子(あきこ/しょうし/見上愛)が二人目の皇子を出産したことで、さらなる権力の高みを展望するようになる。


孫を天皇にするため藤原道長が動き出す

京都御苑の西端に位置する枇杷殿跡(京都府京都市)。代々、藤原氏の邸宅があった場所で、藤原道長は娘・妍子のために屋敷を整備。後に三条天皇の御所となった。妍子が枇杷皇太后とも呼ばれるのは、この地が由縁である。

 藤原道長は、藤式部の望み通り、その娘・藤原賢子(かたこ/けんし/南沙良)の裳着(もぎ)に際して祝いの品々を贈った。その席で父・藤原為時は、藤原惟規(のぶのり/高杉真宙)がうっかりこぼした一言で賢子の本当の父親が道長であることを知る。これで、この事実を知らない関係者は、道長一人となった。

 

 そんななか、藤原伊周(これちか/三浦翔平)が死去。最期まで道長への憎悪が薄れぬまま息を引き取った。清少納言(せいしょうなごん/ファーストサマーウイカ)は道長の非情な仕打ちと唇を噛み、一条天皇(塩野瑛久)は自分が存命のうちにと、第一皇子である敦康親王(あつやすしんのう/片岡千之助)の将来の安泰を画策する。

 

 ある日、惟規が従五位下に叙された上、為時が越後守に任じられた。相次ぐ出世のみならず、賢子も無事に裳着の儀式を済ませ、藤式部の一家は、晴れやかな空気に包まれた。

 

 ところが、父に付き従い、越後に向かう道中で、惟規は急に激しい腹痛を覚えて倒れた。越後に着くや否や、惟規は死去。突然の知らせに言葉を失う藤式部は、当初は気丈に振る舞っていたものの、あふれる涙を止めることができずに泣き崩れる。その様子を見て心を動かされた賢子は、忌み嫌っていた母の背中をそっとさすってやるのだった。

 

■派手好みは悲しみから逃れるためだった?

 

 藤原妍子(きよこ/けんし)は994(正暦5)年に、藤原道長の二女として生まれた。母は左大臣を務めた源雅信(みなもとのまさのぶ)の娘である源倫子(りんし/ともこ)。同じ母をもつ兄弟に、藤原頼通(よりみち)、藤原彰子らがいる。

 

 1010(寛弘7)年に居貞(おきさだ/いやさだ)親王に嫁いだ。当時、妍子は17歳で、居貞親王は35歳。すでに居貞親王には、妃である藤原娍子(せいし/すけこ)との間に、妍子と同い年である敦明(あつあきら)親王をはじめ、4男2女がいた。居貞親王は妍子を道長からの刺客と見て警戒していたようで、夫婦仲はあまりよくなかったらしい。

 

 翌年に一条天皇が譲位し、居貞親王が三条天皇として即位。1012(長和元)年に妍子は中宮となった。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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