×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

昇進は遅れたが歌人として名を残した藤原頼宗

紫式部と藤原道長をめぐる人々㊳


10月6日(日)放送の『光る君へ』第38回「まぶしき闇」では、中宮・藤原彰子(ふじわらのあきこ/しょうし/見上愛)と敦康親王(あつやすしんのう/渡邉櫂)との結びつきが強まるなか、彰子の父である藤原道長(みちなが/柄本佑)は、憎悪に身を焦がした藤原伊周(これちか/三浦翔平)と対峙する。一方、藤式部(とうしきぶ/のちの紫式部/吉高由里子)は、亡き皇后・藤原定子(さだこ)を心から慕う清少納言(せいしょうなごん/ファーストサマーウイカ)に「源氏の物語」を恨んでいると告白された。


■激しい憎悪の末に藤原伊周が正気を失う

『小倉百人一首』に描かれた大弐三位(国立国会図書館蔵)。大弐三位(藤原賢子)は紫式部の娘で、藤原頼宗の愛人だったと伝わっている。女流歌人との交流が盛んだったようで、和泉式部の娘で女房三十六歌仙のひとりである小式部内侍も頼宗の愛人として名前が挙がっている。

 藤式部の前に現れた清少納言は、宮中で話題となっている「源氏の物語」の感想をひと通り述べた後、恨んでいると告白した。一時は少納言の書いた「枕草子」に夢中になっていた一条天皇(塩野瑛久)の関心が、すっかり「源氏の物語」に奪われたからだ。

 

 そんなある日、一条天皇と中宮・藤原彰子との間の皇子である敦成(あつひら)親王を呪う呪符が発見された。調べによると、首謀者は藤原道長を敵視する藤原伊周の縁者と判明。道長は一条天皇に、関係者の処罰とともに伊周の参内停止が妥当と進言する。

 

 一方、藤式部は、彰子のいる藤壺をより華やかな場所にしようと、和歌に長けたあかね(泉里香)を道長に推薦した。あかねは和泉式部という名を得て、藤壺の新たな女房として働くこととなった。藤壺に風雅な空気が流れ、一条天皇や彰子が穏やかな日々を送る傍らで、道長は敦康親王が彰子に懐く様子に、妙な胸騒ぎを覚えた。

 

 その後、彰子は2度目の懐妊を果たし、土御門殿に下がった。再び彰子と離れ離れとなった敦康親王は、道長に邪魔者扱いをされている、と伯父の伊周に愚痴をこぼす。これを聞いた伊周は、道長のもとを訪ねた。

 

 道長への憎悪のためか、すっかり心身の衰えた伊周に対し、道長は政界からの引退を勧告。伊周はもはや隠し立てすることなく、道長に呪詛の言葉を投げつけた。何度も道長への呪いの言葉を繰り返す伊周は、正気を失っていたのだった。

 

■人生の最期に権力の頂点に立つ

 

 藤原頼宗(よりむね)は、993(正暦4)年に藤原道長の次男として生まれた。母は左大臣を務めた源高明(たかあきら)の娘である源明子(あきこ)

 

 1004(寛弘元)年に元服したのと同時に従五位上に叙せられる。1011(寛弘8)年には従三位と順調に昇進を重ね、公卿に列した。道長の嫡妻である源倫子(ともこ/りんし)の息子である藤原頼通(よりみち)、その弟である藤原教通(のりみち)らに比べると、やや遅れての出世となった。1014(長和3)年には権中納言に、1021(治安元)年には権大納言に任じられている。

KEYWORDS:

過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

最新号案内

『歴史人』2025年10月号

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル

邪馬台国の場所は畿内か北部九州か? 論争が続く邪馬台国や卑弥呼の謎は、日本史最大のミステリーとされている。今号では、古代史専門の歴史学者たちに支持する説を伺い、最新の知見を伝えていく。