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紫式部が「姫君の美しさ」と評した宰相の君

紫式部と藤原道長をめぐる人々㉝


9月1日(日)放送の『光る君へ』第33回「式部誕生」では、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)が、中宮・藤原彰子(ふじわらのあきこ/しょうし/見上愛)の暮らす藤壺で働き始める様子が描かれた。慣れない環境になかなか筆の進まないまひろは、藤原道長(みちなが/柄本佑)に里帰りを提案する。


■暴力的な世の到来を道長が憂う

大正期の『国史大辞典』に描かれた「産養」の様子(国立国会図書館蔵)。平安の貴族社会で、誕生した子に生後9日にわたり行なわれた儀式。知人や親戚などから贈り物が贈られ、和歌や管弦で祝う祝賀の儀式である一方、無病息災を祈願する邪気払いの側面もあった。『紫式部日記』に詳細な内容が描かれているという。

 中宮・藤原彰子の女房として藤壺に入ったまひろは、藤(とう)式部という名が与えられた上で、宮中での業務である物語の執筆を始めた。

 

 しかし、宮中での暮らしは慣れないことばかりで、執筆に集中できないばかりか、ろくに眠ることさえままならない。思わず音を上げたまひろは、左大臣・藤原道長に物語の続きは里に帰って書きたい、と申し出た。

 

 難色を示す道長に、必ず続きを書き上げることを約束して、まひろは強引に里帰りを果たした。藤壺に入ってから、わずか8日後のことだった。

 

 一方、一条天皇(塩野瑛久)を味方につけて権力を拡大しようとする藤原伊周(これちか/三浦翔平)や右大臣・藤原顕光(あきみつ/宮川一朗太)の動向に目を離せない道長は、自ら天皇に苦言を呈す。国の政を行なうのに、武力を頼みにする者を決して許してはならないことを、道長は一条天皇に訴えたのだった。

 

 その後、まひろは物語の続きを書き上げ、再び宮中に舞い戻る。物語に感じ入った一条天皇は、まひろに会いに藤壺にやってきた。

 

 一条天皇はまひろに対し、当初は自分を批判しているかのように読める物語の内容に腹が立ったが、不思議と心に染み入ると評した。彰子も、まひろの書く物語に興味津々の様子だ。

 

 その後、大和国の興福寺(こうふくじ)別当・定澄(じょうちょう/赤星昇一郎)が道長を訪ねてくる。定澄は、自分たちの訴えを聞き入れなければ、道長の屋敷を焼き払うと脅してきた。暴力を辞さない定澄の脅迫に怯むことなく、道長は毅然と睨み返すのだった。

 

■父とは打って変わって有能だった宰相の君

 

 藤原豊子(ほうし/とよこ)は大納言・藤原道綱の娘として生まれた。生没年はともに不詳。一条天皇の中宮・藤原彰子の女房衆のひとりで、宰相の君と呼ばれた。呼称については「宰相の君」のほか、「弁宰相君」、「美作三位」などがあった。

 

 父の道綱は、藤原実資(さねすけ)に限りなく低い評価を得ていたが、彰子の女房として記録に残る宰相の君は、逆に評価が高かったようだ。

 

 例えば、彰子の出産の際には、彰子の母・源倫子(みなもとのりんし/ともこ)に並んで最も近い場所でお世話をしたという。よほどの信頼がなければ、このような配置は考えられない。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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