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仕事は冴えずとも心優しかった藤原道綱

紫式部と藤原道長をめぐる人々㉟


9月15日(日)放送の『光る君へ』第35回「中宮の涙」では、藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)が中宮・藤原彰子(あきこ/しょうし/見上愛)の懐妊祈願のため御嶽詣をする様子が描かれた。一方、まひろ(藤式部/とうしきぶ/のちの紫式部/吉高由里子)は自身の物語を通じて、一条天皇(塩野瑛久)や彰子らと語ることが増えていくのだった。


■まひろが中宮・藤原彰子の心を開かせる

京都府京都市に建つ一条邸跡の碑。藤原道綱の育った場所で、屋敷はのちに源頼光に譲渡された。後年、道綱は頼光の娘を娶り、再びこの地に居住したという。頼光が受領として豊かな財を成していたため、道綱は何の不自由もない生涯を過ごしたらしい。

 険しい山道を乗り越え、藤原道長ら一行は、京を出て9日目についに金峯山寺に到着し、自ら書き写した経典を捧げる埋経を行なった。娘で中宮の藤原彰子の懐妊祈願のためであった。

 

 藤原伊周(これちか/三浦翔平)は、その帰途に道長の命を奪う計画を実行した。難行に疲れ果てた道長を射殺するのは容易い。伊周の配下がまさに矢を射ようとした瞬間、身を投げ出してその狙いを逸らしたのは、伊周の弟である藤原隆家(たかいえ/竜星涼)だった。突如現れた隆家は、過去の過ちを悔いているからこそ憎まれても復讐を阻止する、と訴えるが、伊周の心には響かない。

 

 ある日、まひろの書く「光る君の物語」について彰子は、登場人物の若紫に自分の身を重ねて「光る君の妻になるのがよい」と、その後の展開を提案する。そこから彰子の心情を感じ取ったまひろは、一条天皇に自分の本当の気持ちを打ち明けることを勧めた。

 

 と、そこへ一条天皇が藤壺を訪れる。まひろが驚かされたのは、昂る気持ちをそのままに、彰子が一条天皇に涙しながら思いを告げたことだった。

 

 突然のことにたじろぐ一条天皇だったが、思いは届いた。そしてその夜、二人は結ばれたのだった。

 

■血筋で昇進を重ねたものの願いは叶わなかった

 

 藤原道綱(みちつな)は955(天暦9)年に、摂政を務めた藤原兼家(かねいえ)の二男として生まれた。母は藤原倫寧(ともやす)の娘で、『蜻蛉(かげろう)日記』の作者として知られる藤原道綱母(みちつなのはは)

 

 970(天暦元)年に叙爵。左衛門佐、蔵人、右中将などを歴任した。987(永延元)年に従三位に叙され、991(正暦2)年には参議。この後、996(長徳2)年に中納言兼右大将に就任。翌997(長徳3)年には大納言となり、正二位に昇った。

 

 一見、順調に見えるが、母の違う兄弟である藤原道隆(みちたか)道兼(みちかね)、道長の華々しい出世に比べ、遥かに遅く、見劣りする昇進に留まった。その理由として、兼家の嫡妻・時姫の子でなかったという出自のほか、政治家としての能力不足が指摘されている。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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